雑感:最近の研究を振り返って
Tsutomu
Hashimoto, Liberalism and the Philosophy of Economics, London: Routledge,
2022(?)
英語で単著を出版することになりました。今年の秋、9月には刊行されるのではないかと思います。
先月の6月13日、校正と索引づくりのすべてを終えて、ルートレッジ社に完成稿を提出しました。このあと、索引の校正がありますが、それ以外の部分は実質的に手を離れました。いまのところネット上の案内では、刊行予定は来年となっています。2023年刊、しかし実質的には、2022年秋の刊行になるかもしれません。
今回、私にとって、はじめての英語の単著の刊行になります。
最後の校正の過程は、スペルの間違いや、英文校正業者によるミスの発見など、いろいろなレベルで細心の注意力を払って入念に行いました。校正箇所は全部で148カ所に上りました。これらの修正をすべてPDFの修正機能やコメント機能を使って、画面上で記していきます。すべて英語で校正の指示を書き込みます。このようなやり方は初めてでしたので、やはり特別の注意力が必要でした。
索引づくりももちろん英語であり、こちらも職人的な技量を要する作業でした。索引づくりの作業は、その多くを出張先の高知で行いましたので、その思い出は、とりわけ高知のオーテピア図書館を利用した思い出と重なるでしょう。
索引づくりというのは、大した作業ではないとは思いますが、今回この作業は、私の人生の一つの終着点の一歩前になるという感覚でした。この英語の著作の刊行によって、私の研究人生は、大きな山を越えることになります。その最終段階がこの作業であり、特別の時間でした。
昨年の2021年は、拙著『自由原理』を上梓しました。この本は、日本語としては私の主著になるものでしょう。この本の刊行も、私にとって人生の一つの山でした。ですが今年は英語での刊行です。しかもRoutledge社からの刊行ということで、これは岩波書店からの刊行よりもさらにハードルが高く、おそらく今回の出版が、私の人生の山になるだろうという気がします。
昨年は『自由原理』を刊行した後に、単著の『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』、編著の『ロスト欲望社会』をそれぞれ刊行しましたが、これらの本の出版と並行して、私はこれまで書き溜めてきた英語の原稿を、ルートレッジ社に持ち込みました。
タイトルは、Liberalism and the Philosophy of Economicsとしました。この英語の本は、私のこれまでの研究のなかから、このテーマにふさわしい部分をピックアップした論文集であります。この本には、単著『自由原理』の内容は含まれておらず、『自由原理』以前の私の研究をまとめたものとなります。『自由原理』については、いずれ別の機会に英訳したいと考えています。
それはともかく、今回の著作のタイトル(日本語にすると「自由主義と経済哲学」)は、私が以前から温めてきたタイトルであり、思い入れがあるものです。これはおそらく、私のこれまでの研究人生を総括する言葉にもなるでしょう。私の研究は、社会科学のさまざまな領域にまたがりますが、このようなタイトルのもとに、一つの軸を示すことができたことに、今はほっとしています。ささやかな貢献ではありますが、自分のなかでは、研究生活の全体を、一つのテーマのもとに綜合できたように思います。それはおそらく、このタイトルが自分にとってフィットしている、自分の研究を適切に表している、ということでもあるでしょう。
ロンドンを拠点とするルートレッジ社は、私が研究を始めた90年代からすでに、「経済学と哲学」というシリーズで、さまざまな本を刊行してきました。若いころに私が影響を受けた、M. Rizzo and G. O’DriscollのThe Economics
of Time and Ignoranceも、このシリーズの一冊でした。私はこの「経済学と哲学」シリーズがルートレッジ社から刊行されていることに勇気づけられて、この分野の研究に入っていくことができました。日本では、経済学と哲学というテーマはそれほど研究されていなかったですが、英語圏ではこの分野が確実に発展していることに、勇気づけられてきました。
しかしいったい自分の研究成果を、どうやってルートレッジ社から刊行することができるのか。私の周りでは、フランス人のカンパニョーロさんが、メンガーに関する研究書をルートレッジ社から刊行されています。それでまず彼に、ルートレッジ社の編集者を紹介してくれないか、と尋ねました。するとその前に原稿を送ってくれ、という真っ当な応答が返ってきました。ところが私は、その時点でまだ原稿を完成させていなかったので、そのときは保留状態となりました。
ほどなくして2020年の秋に、経済学史研究者の伊藤誠一郎先生が、これまでのご研究をまとめて、ご著書をルートレッジ社から刊行されるというニュースを耳にしました。
Seiichiro Ito, English Economic Thought in the Seventeenth
Century: Rejecting the Dutch Model, Routledge, 2021.
そこで伊藤先生にメールで問い合わせたところ、ルートレッジ社は現在、サイト上で持ち込み原稿を受け付けている、とのことです。私はさっそく、同社のサイトを通じて、このテーマを担当している編集者に、直接メールで問い合わせました。
ここから、編集者とのさまざまなやり取りがメールでつづくのですが、審査をパスするには、当然ながら、とてもハードルが高いことが分かりました。二人のレフェリーにコメントをいただきましたが、そのコメントがたいへん厳しい。ほとんど出版は不可能だと思われました。
しかしそこから、私は自分の研究成果をディフェンドし、あるいは二人のレフェリーのコメントに従って、二つの章を別の内容に取り換えたりしました。また、本書全体を紹介するための「序章」を追加しました。そして最後は、おそらく編集者の力量でしょう。編集会議を通していただきました。裏で誰かが推薦してくれたのかもしれませんが、それは分かりません。
このように、ルートレッジ社から出版するには、いくつかのハードルを越えていく必要がありましたが、最も高いハードルは自分の精神的なものであり、それはつまり、私の周りに、英語で本を出版している人があまりいないので、実現可能性については検討がつかず、挑戦する気にならないということでした。
私はこれまでの研究で、とくに法哲学の研究者たちから大きな影響を受けてきましたが、みなさん英語力はほぼ完ぺきで、国際学会でも精力的に報告されてきました。しかし私の知る範囲では、私が尊敬する先生方は、だれも英語で著作を刊行されていません。ですので、私も英語で自由主義に関する本を出すことなど、そもそも動機づけられていませんでした。
これに対して経済学史の研究者たちは、これまで何人かの方々が、英語で著作を刊行されてきました。しかし私はその業績に、あまり注目してきませんでした。ただ、塩野谷祐一先生が、日本語で大著を何冊か刊行され、それらを英語でも刊行されてきたことには、大いに敬意を払ってきました。塩野谷祐一先生の研究をどう評価するかについては、いずれ論文にまとめたいと思っています。
こういう状況でしたので、私はこれまで、英語で本を出す動機を得ることがありませんでした。また英語で本を出すには、その費用を助成金でまかなう必要があるだろうし、助成金を獲得する手続きは大変ではないか、という先入観を抱いてきました。しかし最近では、デジタル媒体のみの出版もあり、いずれにせよ、ルートレッジ社からの出版コストは、ゼロであります。もちろん、印税もゼロですけれども。
ルートレッジ社の場合、本は、ハードカバー、ソフトカバー、電子媒体、という三つのスタイルで刊行します。世界の諸大学の研究者たちを読者として相手にしているルートレッジ社は、それなりの販売網があるのでしょう。出版の問題は、コストではなく、とにかく編集会議をパスできるかどうかであります。
私の場合、まったくリスクを恐れずに、準備不足のまま出版社に原稿を送りましたが、振り返ってみると、やはりもっと事前によく考えて、編集者に提出する企画書(フォーマットがある)の文章をもっと練って、それを英文校正業者に依頼して推敲してもらうべきでした。また、著作全体の導入となるイントロダクション(序章)を、英語であらかじめ書くべきであったでしょう。二人のレフェリーのコメントを読んで、その厳しい批判に意気消沈し、私はこれらの作業を前もってしなかったことを、致命的な失敗であると感じました。しかし編集者の力量によって、なんとか救われました。私の原稿の欠点を克服するチャンスをもらいました。
なお、編集者の仕事というのは、ルートレッジ社では分業体制になっていて、持ち込み原稿を審査して編集会議にかけるまでの担当者、そこから初稿の活字状態もっていく直前までの担当者、初稿の校正から最終原稿にもっていくまでの担当者(これはインドの会社に外注している)、という三段階の体制になっています。このあと、拙著刊行後の担当者がいるのかどうかは、まだ分かりません。
私の原稿は、初稿に入れる直前で、少し延期してもらいました。2022年1-2月のことです。初稿前の原稿を、滋賀県に在住のレスリー・ウェッブさんに、推敲していただきました。それによって、私の英文はさらに流暢になっただけでなく、難しい部分も分かりやすくなったのではないかと思います。ウェッブさんとは、共編著『オーストリア学派の経済学』で、日本語の論文をいっしょに書いたことがありました。彼とは長年、友情を温めてきました。彼はオーストリア学派に詳しい民間の研究者であります。ウェッブさんには、改めて、この場を借りて心より感謝申し上げます。
以上は、出版に至るまでのこまごまとした事情でした。後続の研究者の方々に、少しでも参考になれば幸いです。私のように日本で博士号を取得した場合でも、そしてまた、まわりに「英語で論文を書け」とか「英語で本を書け」といったアドバイスをしてくれる人がいない場合でも、英語での出版は可能です。それはまた、私が後続のみなさんに、推奨したい目標でもあります。
というのも最近では、ディープラーニングによる翻訳性能の急激な向上で、deepLなどのサイトを使えば、日本語を英語に翻訳することは格段にやさしくなっています。学術的な日本語は、なかなか格式のある英語に翻訳することが難しいかもしれませんが、しかしそこは英文校正の業者を通じてブラッシュアップしてもらえばよいでしょう。
合わせて、自身の英語力を磨いていくことも重要です。英語でコミュニケーションする機会を確保して、英語で文章を書き続けていくと、10年くらい経てば何とかモノになるレベルに到達します。問題はその10年間という気の遠くなるような時間に耐えて、コツコツすすめるかどうか、ということでしょうか。私も最初に英語で論文を書いたときは、まったく要領がつかめていませんでした。これをどのようにして改善していくのか。闇の中を進むような感じですけれども、そしてまた、たくさんの恥をかきますけれども、最終的にはなんとかなるものです。
問題は、英語で論文や本を書くことを目標にするためには、たんに英語圏の研究を日本に紹介するのではなく、英語で書いても十分に意義深い、すぐれた研究テーマをつかみ取ることではないかと思います。すぐれた研究テーマを見つけるまでが大変です。この点について深刻になって、時間をかけなければなりません。
以上、最後はアドバイスになってしまいましたけれども、これはいまの私が、若い頃の私に向かってアドバイスをしているようなものです。若い頃に、こうしたアドバイスが欲しかった、という話です。
いずれにせよ、私はいま、自分の研究の山を越え、いまは下り坂を少しずつ歩いているように気がします。この後、さらに高い山を目指すとしても、この1-2年の山が最も意義ある山になるのではないか、とも思います。これは私にとって老いの自覚でもあるでしょう。
一つ理解したのは、人生で出会う事柄は、すべてフィクションではないか、ということです。この言葉の正確な意味はもっと説明を要するのですが、この理解によって、私は本やその他の品を捨てることができる段階になりました。あまり大したことではないですが、いまはこうして、一息ついて、この文章を書きました。