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■国籍付与をめぐる法哲学

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  広瀬清吾 / 大西楠テア編『移動と帰属の法理論』岩波書店   瀧川裕英さま、横濱竜也さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    たしかに日本国憲法の第 22 条第二項は、ヘンですね。「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」と規定していますが、この二つの事柄(移住と帰属)は、「又は」で結ぶことができるような、同一の「自由」を前提としているものではないですね。  移住といっても、一時的訪問、長期滞在、最終移住、といういろいろな種類があり、すべてを同じ「自由」で認めるべきものではないでしょう。 また、国籍を離脱する自由というのは、これは国外に移動しなくても、原理的には可能です。つまり、人は自分の国籍を失うと同時に、その国に住み続けることもできる。そういう法的な可能性はあるでしょう。解釈によりますが、投票する権利などを失って、「永住権」をもつ場合、これは最低限の国籍をもっている状態だということになるでしょうか。いや永住権は、最低限にして十分な国籍要件ではないでしょう。  人は、いずれかの国家に居住する権利をもっています。すべての国家から排除されることはありません。このような「退去免除権」の観点から、国民に対して、永住権としての国籍を認めるという論理は、成り立つと思います。しかしこの退去免除権の論理が成り立つためには、他に受け入れてくれる国がない、という条件が必要でしょう。 43 頁の R4 の命題「人は、自らの国籍国から退去させられない権利を持つ」と言えるためには、「もし他国が、法的状態を確約しつつ受け入れるということがない場合には」という条件が付くのではないでしょうか。市民として受入れてくれる別の国があるなら、国はある市民を、国外追放にする権利をもっている、ということになるのではないか、と思いました。    シンガポールにせよ、どの国にせよ、国外から外国人労働者を受け入れる場合、その労働者の市民としての資格をスコア化して、段階的に認める、そして最終的な段階において、フルメンバーシップとしての市民権(国籍)を認める、という方法が考えられます。けれども、コミュニタリアン的な「包摂」の価値を強調するなら、受け入れの段階を単純化して、移民の地位を階層化しないほうがいい、というのですね。階層化は差別化であり、排除をも

■レギュラシオン理論と投資型リベラル

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    磯谷明徳 / 植村博恭編『制度と進化の政治経済学』日本経済評論社   植村博恭さま、横田宏樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    「進化の政治経済学」と「レギュラシオン理論」を接合するには、どうすればいいのか、というテーマですね。 成長レジームというものを、投資主導型、消費主導型、輸出主導型、に分けること。これは興味深いです。 また投資に関して言えば、長期投資に対する収益の期待がどのような特徴を持つのかに注目して分類することができる。例えば、投資によって生産財の生産が増加すれば、生産と中間投入(中間需要)の連鎖、すなわちレオンチェフ乗数過程が生まれるのですね。 また、中間財の需要と最終財の需要の区別も重要で、これは貿易収支に影響を与えます。  投資が利潤シェアに強く規定されるときは、利潤主導型の成長になる。投資が需要に強く規定される場合は、賃金主導型の成長になる。  消費主導型や輸出主導型よりも、投資主導型の経済成長が望ましいとは思いますが、しかし一般に、投資が成功するためには、それが生産に結びついて最終的な消費財の生産に至らないといけません。あるいはそのような生産の条件としての社会的共通資本に至らないといけません。  成長レジームには、これらに加えて、金融主導型もあるということですが、いずれにせよ、レギュラシオンとポストケインズ派に共通する問題意識は「安定」であり、そのための調整である、ということですね。  なお、旭川家具の分析で、旭川市は、家具づくりの産業化と地域化を強く推進したということですが、その後、何が問題になったのかというと、よりグローバルに、より多く売ろうとすると、森林や木の情報が希薄になる。それで家具づくりの背景が付加価値に結び付かなくなる、ということだったのですね。これはマーケティングをもっとうまくやれば克服できるようにも思いますが、そのためには地域の人たちがもっと多く、この家具づくりの産業化にかかわりをもって行動することが必要だというのですね。  

■AIがアドバイスをする社会になった

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    堀内進之介『データ管理は私たちを幸福にするか ?  自己追跡の倫理学』光文社新書   堀内進之介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    とても文体がよくて、引き込まれました。    NTTドコモのCM、「ひとり、ひとつ。 Walk with you 「名刺」篇」は、面白いですね。以下の YouTube です。   https://www.youtube.com/watch?v=bb3fWOnet90    スマホのアプリで、名刺を管理することができます。では名刺の整理を「偉い人順」に並べることはできるのか。この CM で、主人公がそのようにスマホ(を擬人化した俳優、渡辺謙)に頼むと、    君がいう偉い人とはいったい何だ。肩書か、それとも地位のことかな。  肩書で人を並び替える。そんな悲しい整理は私にはできない。名刺に負けるな !   というアドバイスが返ってきます。  この CM は、 2011 年のものですが、 2022 年現在、このようなアドバイスができる AI の登場は、現実味を増してきましたね。コンピューターがその自己追跡機能によって情報を集め、私たちの人生に、優れたアドバイスをしてくれるようになる。そういう段階になりましたね。  もしコンピューターがアドバイスをすることができるなら、それは万人に開かれたものでなければならないでしょう。実質的には、低所得者や社会的弱者が優先的に利用できることが望ましい。そのようにしないと、不平等が拡大してしまいます。   AI の占いもでてきましたね。   https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000070707.html    これは、お金を払えば占い師のアドバイスを得られるというものです。この程度のアドバイスであれば、市場で自由な取引を認めてもかまわない、ということになるでしょうか。  それにしてもアドバイスは、複数の AI から得たいものです。一つの AI のアドバイスに依存すると、リスクが大きいでしょう。  本書は全体として、データ管理社会の問題点を明らかにしつつも、データ管理技術や AI 技術を有効に用いる社会を展望しています。コンピューターは

■政治と宗教は和解(揚棄)できるのか

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    小磯仁 / 寄川条路『ヘルダーリンとヘーゲル』社会評論社   寄川条路さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ヘーゲルは、小中高一貫のギムナジウムを卒業後、南ドイツのテュービンゲン大学の神学校に進むのですが、そこで同期のヘルダーリンに会うのですね。また、それから二年後には、シェリングが入学してくる。 当時はフランス革命があって、それで学生たちはフランスの新聞を読み漁っていた。  ヘーゲルも若いころは、フランス革命に影響を受けて、革新的な考え方を抱いたようですが、彼のいう弁証法的統一は、対立が高次の統一へと「和解」するというものです。それは例えば、現代のカトリック哲学、チャールズ・テイラーの哲学でも、「和解」が語られます。これはつまり、政治が再び、カトリックなどの宗教と高次の和解を遂げるための、方法的な視角にもなると思いますが、具体的に、どのような政策が高次の統一のために必要になるのか。政教分離をしつつ、高次の和解をするというのは、どういうことなのか。それが問題になるかと思いました。  ヘーゲルは、『カント注釈』 (1798) の段階では、政教融合の立場でした。けれども、『ドイツ国家体制の批判』 (1799-1803) では、国家と教会の分離を明確に主張します。ドイツが一つの国家としてまとまるべく、人々の私的所有権を認める必要がある、と主張したのですね。  この場合、個々の地方政府がプロテスタンティズムやカトリックのようなある特定の宗教と結びつくことは認めるけれども、ドイツは強い国家を築くために、権力の中央集権をすすめて、中央政府は宗教から独立した統治を行う、ということになるでしょうか。  いずれにせよヘーゲルは、国家権力の集中を進めるために、当時のオーストリアをモデルにして、身分制を維持しつつも、中央政府を作ることが現実的と考えたのですね。  ドイツの中央政府が、宗教から独立していることが望ましいとして、ヘーゲル哲学の体系では、最終的には、政治と宗教が和解する必要があるのではないでしょうか。カトリックおよびプロテスタンティズムが、政治権力と和解する、というのは、どのようなものなのでしょう。この点に関心を持ちました。

■経済学のどこが問題なのか

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ロバート・スキデルスキー『経済学のどこが問題なのか』鍋島直樹訳、名古屋大学出版会    鍋島直樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は経済学のすぐれた入門書です。 スキデルスキーの博学的な魅力が、いかんなく発揮されています。しかも経済学を学ぶ学生に対する愛情に満ちています。  この本の内容は、私がこれまで関心をもって研究してきた事柄と大きく重なります。第一章は「なぜ方法論なのか」。これは私の最初の研究テーマでもありました。 第五章の「モデルと法則」や、第 13 章の「完全な知識からの脱却」も、方法論のテーマですね。これらのテーマも、私が最初に関心を寄せたものでした。  このほか、「経済心理学」、「社会学と経済学」、「制度経済学」、「なぜ経済思想史を研究するのか」「倫理学と経済学」などの章は、私のその後のテーマとなりました。これらの研究が、なぜ重要であるのかについて、本書は説得的に説明しています。内容も豊かであり、引用はどれも気が利いていて、奥行きがあります。それぞれの章は短いのですが、体系的で、一貫性があります。本書を、多くの学生に勧めたいです。  大学院で専門的な経済学を学ぶと、それはそれで何かを得るわけですけれども、経済学には深刻な欠陥もあることに気づきます。例えば、経済学の一般的なテキストを学ぶと、独占や寡占の問題を軽視しがちになります。学生たちは、寡占や独占が、偶発的で一時的なものであると思ってしまいます。市場支配力というものが、限定的なものだと思わされてしまいます。専門的な経済学は、こうした誤った認識を再生産している、というわけですね。では、どうすればいいのか。スキデルスキーはおそらく、ケインズ主義を社会学や倫理学や経済思想と結合して、もっと豊かな経済学の教育をすべきである、と考えているのではないでしょうか。  もう一つ、「なぜ経済思想史を研究するのか」という章は、重要だと思いました。ノーベル賞受賞者のラース・ピーター・ハンセンは、次のように主張しています (300) 。  「 [ 学術雑誌の ] 査読者へのこうした [ 自分の研究に対する評価をめぐる ] 依存は、はるかに保守的な戦略を導く。そのような依存は、個別分野の境界を超える革新的な論文に不利に働き、そのことが、保守的な戦略をますます

■コミュニタリアン経済学の注目すべき成果

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    クリスティアン・フェルバー『公共善エコノミー』池田憲昭訳、鉱脈社    池田憲昭さま、本書を日本語に訳していただき、ありがとうございます。 とくにこの本の最後に、体系的なアンケートが載っていて、これが刺激的でした。  例えば、「問い 1 」は、「経済活動の上位目標は何であるべきか ? 」であり、答えの選択肢として、「上位目標として明確なものはないので、 GDP を目標にする」「資本の増殖がすべての経済活動の上位目標である」「公共善の増殖がすべての経済活動の上位目標である」という三つが示されます。  しかし、自由主義や他の多くのイデオロギーの立場は、経済活動の上位目標が、「社会や文明の繁栄」であると考えます。これは「公共善」という目標とは区別される基準です。ある特定の善を固定して目標にするのではありません。新たな目標が生まれる可能性を残して、それを探求するに値するものだと考えます。 とはいっても、おそらく本書の立場も、これと同様に発想するのでしょう。何が公共善の目標であるのかについては、オープンにしておいて、民主的に決めればよいと発想するのでしょう。その限りでは、自由主義やその他のイデオロギーと両立すると思いました。 いずれにせよ、一国の経済目標を民主的に明確に固定することは難しいですね。 そこで本書は、「コンベント」という、いわば「ミニ・パブリクス」を作って議論し、経済目標を確定するという実践に可能性を見出しているのだと思いました。  「問い 4 」以降は、具体的な問題に即して問いが立てられていて、興味深いです。 それぞれの問いの回答の一つの目は、「パブリックソルーション」と名付けられていますが、これは多くの場合、「リバタリアン」の立場です。これに抵抗するかたちで、「オルタナティブ」の選択肢がそれぞれ提示されています。もっとも現実の各国政府の選択は、すでにリバタリアンではなく、ある程度までオルタナティブを採用しています。 現実的なオルタナティブの基準は、例えば、社会や文明の繁栄という基準であり、そのような観点から各国政府は、相続税などについて、一定の制度を設けています。「私的所有は道徳的に悪いから制約すべきである」という公共善の立場ではなく、制約した方が、文明が繁栄する。だから制約する、ということだと思います。

■「ケア」の論理と「正義」の論理

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    池田弘乃『ケアへの法哲学』ナカニシヤ出版   池田弘乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本の「序」で、男性から女性への戸籍上の性別を変更した人が、ゴルフクラブへの入会を拒否されたという事件が紹介されています。 この事件に対して、静岡地方裁判所は、ゴルフクラブに対して損害賠償を命じました。しかしそもそも、ゴルフクラブは、なぜこの人の入会を拒絶したのかといえば、外見が男性的か女性的かという問題ではなく、入会に際して提出する戸籍謄本に、性別変更の履歴が載っていたからだ、というのです。これはおかしいですね。  そもそも、ゴルフクラブが必要としている証明書類は、日本の国籍を持っているかどうかであり、男性 / 女性の区別ではありません。入会に際して、男性であるか女性であるかを、証明する必要はりません。ですが、国籍を証明する戸籍謄本に、性別の変更履歴が記載されている。これはおかしい。戸籍法を変更して、戸籍謄本には性別の変更履歴を載せないようにすべきだ、ということでしょう。そうしないと差別が生じてしまいます。  マイノリティへのケアは、マイノリティに対する差別を生じさせないようにケアすることです。これは正義の要求でもあります。  しかし現在、「ケアの政治」は、「正義の政治」に対抗するかたちで、問題が立てられています。この問題について、本書はさまざまに検討しています。第三章は、フェミニズムの問題を、リベラリズムの一つの応用問題として捉えるのではなく、徳の理論の観点から捉える可能性を検討しています。ここではヌスバウムのアリストテレス主義が検討されていますが、結論として、「代弁 advocacy 」というケアの方法が論じられます。  第六章は、メリッサ・ウィリアムズの代表論を検討しています (196f) 。平等主義的な自由主義の立場からすれば、国会議員に占める女性議員の割合を半分にすることが望ましいでしょう。しかしケアの立場は、そのように発想するのではなく、誰が女性の「代弁者」であるかについて考え、代弁する「声」をどのように上げていくのかということに、一層の関心を注ぐでしょう。これは自由主義と両立しますが、しかし運動の構えが異なります。  第八章では、ケアの倫理と正義の倫理が、ダイナミックな相互補完関係にあること