■「ケア」の論理と「正義」の論理

 



 

池田弘乃『ケアへの法哲学』ナカニシヤ出版

 

池田弘乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 この本の「序」で、男性から女性への戸籍上の性別を変更した人が、ゴルフクラブへの入会を拒否されたという事件が紹介されています。

この事件に対して、静岡地方裁判所は、ゴルフクラブに対して損害賠償を命じました。しかしそもそも、ゴルフクラブは、なぜこの人の入会を拒絶したのかといえば、外見が男性的か女性的かという問題ではなく、入会に際して提出する戸籍謄本に、性別変更の履歴が載っていたからだ、というのです。これはおかしいですね。

 そもそも、ゴルフクラブが必要としている証明書類は、日本の国籍を持っているかどうかであり、男性/女性の区別ではありません。入会に際して、男性であるか女性であるかを、証明する必要はりません。ですが、国籍を証明する戸籍謄本に、性別の変更履歴が記載されている。これはおかしい。戸籍法を変更して、戸籍謄本には性別の変更履歴を載せないようにすべきだ、ということでしょう。そうしないと差別が生じてしまいます。

 マイノリティへのケアは、マイノリティに対する差別を生じさせないようにケアすることです。これは正義の要求でもあります。

 しかし現在、「ケアの政治」は、「正義の政治」に対抗するかたちで、問題が立てられています。この問題について、本書はさまざまに検討しています。第三章は、フェミニズムの問題を、リベラリズムの一つの応用問題として捉えるのではなく、徳の理論の観点から捉える可能性を検討しています。ここではヌスバウムのアリストテレス主義が検討されていますが、結論として、「代弁advocacy」というケアの方法が論じられます。

 第六章は、メリッサ・ウィリアムズの代表論を検討しています(196f)。平等主義的な自由主義の立場からすれば、国会議員に占める女性議員の割合を半分にすることが望ましいでしょう。しかしケアの立場は、そのように発想するのではなく、誰が女性の「代弁者」であるかについて考え、代弁する「声」をどのように上げていくのかということに、一層の関心を注ぐでしょう。これは自由主義と両立しますが、しかし運動の構えが異なります。

 第八章では、ケアの倫理と正義の倫理が、ダイナミックな相互補完関係にあることが示されます。ここで紹介されているメイヤロフの思想は、興味深いです(300)。ケアの構成要素の一つに「希望」がある。希望とは、未来に事態が改善されることを期待するのではなく、現在のプレニテュード(充溢)のなかに、未来への希望が含まれている、というのですね。ケアは、つねにそこから新しいものが始まるものとして存在している。世界がそこから創発するものとしてある。

 これに対して正義は、裁判がそうであるように、過去に対する判断であると。もちろん正義は、未来の社会制度を描く際の、一つの構成要素でもあるでしょう。しかし広義の意味でのケアがなければ、すぐれた未来構想を描くことができない。このように考えると、ケアというのは、個々のケアの営みだけでなく、社会構想を描く際の要素として、またその際の心の構えとして、重要であることが分かります。

 


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