■政治と宗教は和解(揚棄)できるのか

 


 

小磯仁/寄川条路『ヘルダーリンとヘーゲル』社会評論社

 

寄川条路さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ヘーゲルは、小中高一貫のギムナジウムを卒業後、南ドイツのテュービンゲン大学の神学校に進むのですが、そこで同期のヘルダーリンに会うのですね。また、それから二年後には、シェリングが入学してくる。

当時はフランス革命があって、それで学生たちはフランスの新聞を読み漁っていた。

 ヘーゲルも若いころは、フランス革命に影響を受けて、革新的な考え方を抱いたようですが、彼のいう弁証法的統一は、対立が高次の統一へと「和解」するというものです。それは例えば、現代のカトリック哲学、チャールズ・テイラーの哲学でも、「和解」が語られます。これはつまり、政治が再び、カトリックなどの宗教と高次の和解を遂げるための、方法的な視角にもなると思いますが、具体的に、どのような政策が高次の統一のために必要になるのか。政教分離をしつつ、高次の和解をするというのは、どういうことなのか。それが問題になるかと思いました。

 ヘーゲルは、『カント注釈』(1798)の段階では、政教融合の立場でした。けれども、『ドイツ国家体制の批判』(1799-1803)では、国家と教会の分離を明確に主張します。ドイツが一つの国家としてまとまるべく、人々の私的所有権を認める必要がある、と主張したのですね。

 この場合、個々の地方政府がプロテスタンティズムやカトリックのようなある特定の宗教と結びつくことは認めるけれども、ドイツは強い国家を築くために、権力の中央集権をすすめて、中央政府は宗教から独立した統治を行う、ということになるでしょうか。

 いずれにせよヘーゲルは、国家権力の集中を進めるために、当時のオーストリアをモデルにして、身分制を維持しつつも、中央政府を作ることが現実的と考えたのですね。

 ドイツの中央政府が、宗教から独立していることが望ましいとして、ヘーゲル哲学の体系では、最終的には、政治と宗教が和解する必要があるのではないでしょうか。カトリックおよびプロテスタンティズムが、政治権力と和解する、というのは、どのようなものなのでしょう。この点に関心を持ちました。


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