■ローカル・コスモポリタニズムという立場

 

 

有賀誠/田上孝一/松本雅和編『普遍主義の可能性/不可能性』法政大学出版局

上原賢司「正義の探求にあたってコスモポリタニズムはもう不要なのか?

 

上原賢司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 グローバル正義論には、これまで三つの波があったのですね。

第一の波は、ロールズ『正義論』とウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』。いずれも1970年代の著作で、これに対する批判的な応答によって、当時の議論が盛り上がりました。

第二の波は、1990年代から2000年代にかけて。

そして第三の波は、2010年代以降の現代になるのですね。具体的に、グローバル正義論では、貿易問題、気候正義、移民倫理学、人権、領有権、などが議論されています。

 私が拙著『帝国の条件』を世に問うたのは、2008年でした。この本は、2001年の9.11テロ事件を受けて、グローバリズムと反グローバリズムの思想と現実を考察したものでありました。これは、グローバル正義論の第二波に当たるのですね。

 興味深いのは、第二波の段階では、「コスモポリタニズム」と「反コスモポリタニズム」という思想的対立が論じられたのですが、第三の波になると、すでにコスモポリタニズムが前提とされていて、もはやこの言葉を用いる必要がないくらいなのですね。

 現在の議論では、「グローバルな正義」というのは、コスモポリタンな考え方をもっていなかったり、あるいは、そのような生き方をしていない人に対しても、重要な意義をもっている。ローカルな生き方をしていても、移民を受け入れるべきだと思っている人はいますし、また移民に対してどう接するべきかについて、一定のグローバルな正義感覚をもっていることが多い。つまりコスモポリタンでなくても、グローバル正義に合意できるという、そういう状況が生まれている。確かに、これは事実だと思います。

 こうなると、コスモポリタニズムの理念は、グローバル正義とは別のところで、その役割を発揮しないといけないですね。例えば、サステナブル都市の担い手になるとか、災害時に諸外国を救済するとか、そのような実践に即して論じられるテーマかもしれません。そのようなコスモポリタンは、必ずしもローカリズムに反対せず、むしろローカルな社会に貢献する役割を果たします。真に意義深いコスモポリタニズム思想は、「ローカル・コスモポリタニズム」と呼べるかもしれません。


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