■顔が見えないと、私たちの「生」は搾取される


山崎亮『面識経済 資本主義社会で人生を楽しむためのコミュニティ論』光文社

 

 コミュニティ・デザイン、という仕事がある。地域に暮らす人たちが、自分たちの地域をどんなコミュニティにしたいのか、それを議論する場を作って、自治体の政策に結びつける仕事である。例えば、図書館や公園や美術館を作るとき、地域の人々が参加して、意見を交わしながら具体的なイメージを練り上げてく。著者は、そのような市民参加の活動をコーディネートする仕事をされているという。意外なことに、そのようなサポートの現場で「経済思想」が役に立つというのだ。

 本書は、コミュニティ・デザインの観点からみた経済思想の入門書である。アダム・スミスからシューマッハーまで、さまざまな経済思想家たちの思想が紹介されている。この本のタイトルにあるように、著者の関心は、お互いに顔の見える経済社会を作ることにある。フェイス・トゥー・フェイス、つまり顔が見える社会。著者はこれを「面識社会」と呼ぶ。私たちが互いに深く知り合うのではなく、ある程度面識があるという「ゆるいつながり」のなかで、経済が回るような社会だ。

 本書はこのような観点から、経済思想の古典を読み解いている。経済思想を「顔の見える経済」という観点から網羅的に紹介した点に、ユニークな点がある。

現代の資本主義社会において、それほど儲からなくても、いい経済生活を送っている人たちがいる。とはいっても本書の247頁にあるように、経営者の多くは「もっと儲けたい」、と思うのが性〔さが〕である。例えば、銀行からお金を借りて、飲食店を経営するとしよう。すると借金を返すことがまず課題となる。店の修繕費も積み立てねばならない。経営者は、客の健康には悪いと知りながらも、「糖質を使ったメニュー」を多くして儲けたりするだろう。しかし著者によれば、このような経営戦略に出る経営者には、客の顔が見えていないのだという。

 もし客の顔が見えていれば、「今日は大盛りにしないほうがいいんじゃないですか?」とか、「今日はこれ以上飲んではいけませんよ」といった会話が成り立つはずだ。そのような会話が成立するなら、客にとっては健康にいいし、経営者にとっては常連客を掴むこともできよう。

乱暴に一般化することはできないが、いま、全国チェーンの店と個人経営の店があるとして、個人経営店の方が「顔の見える社会」を築きやすい。全国チェーンの店で1,000円を消費すると、地元に還元されるお金はその約20%程度(200円)である。これに対して地元貢献型の個人店で消費すれば、そのお金の約80%程度(800円)が地元に還流するという。経済倫理の観点からみて、どちらの店で消費するほうが倫理的に「よい」のか。

 私たちの社会は、多くの点で「顔の見えない社会」である。生産者も消費者も、互いに「見知らぬ人」である。自分の存在が他者から見えない市場社会は、悪く言えば「疎外」された社会であるが、良く言えば「心地よい」、あるいは「煩わしくない」面もある。誰も自分のことを気にしていなければ、自由に欲望を満たして快楽を得ることもできよう。

 しかし顔の見えない関係は、その代償として糖質の多い食事をとらされ、健康を損なってしまう。全国チェーンの店で食事をすると、そのお金の一部が少数の資本家の下に集中し、結果として不平等な社会を促進してしまうこともある。「顔が見えない関係」は、代償も大きい。

 経済倫理的に考えると、顔の見える関係を築いたほうがいい。2010年代には、そのような生き方のヒントになる本がいくつか出版された。例えば、伊藤洋志『ナリワイをつくる』や、平川克美『小商いのすすめ』などである。こうした本が話題になる背景には、たくさん働いてたくさん消費する生活よりも、あまり働かず、あまり消費せずに、顔の見える関係のなかで、長い余暇時間を確保した方が意義深いという考え方があるのだろう。

 経済思想は、私たちが「どう生きるか」という問題に、さまざまなヒントを与えてくれる。顔が見える経済社会は嫌だな、と思う人もいるかもしれない。しかし顔が見えないと、私たちの「生」は搾取されていく。一部の資本家にカネが集まってしまう。本書はこの現実に気づかせてくれる。経済思想の問題を、私たちの生活に密着した問題として考えるためのきっかけとして、本書を多くの人に手に取ってもらいたい。


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