■平等主義の三つの立場を批判する視点





広瀬巌編訳『平等主義基本論文集』勁草書房

訳者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

平等主義をめぐっては、三つの主要な立場があります。

(1)「価値平等主義」:ある個人が他の個人よりも厚生状態が悪い場合に、それ自体が平等の観点からみて「悪」である、とみなす立場です。
(2)「優先主義」:厚生の絶対的な水準が低いほど、政策において厚生水準を増大させる際の道徳的な重要さは増す、とみなす立場です。
(3)「十分主義」:ある一定の水準の厚生を「十分」な水準とみなして、それ以下の厚生状態に置かれた人に対して、政府は、その「十分な水準」の厚生を提供すべきである、とみなす立場です。

 こうした平等主義の立場をめぐる議論は、「再分配をするならどのような基準で再分配するのが望ましいか」、という問題をめぐって争われるものです。しかし、どんな財をどのような仕方で再分配すべきなのか、あるいはまた、「厚生とはなにか」については、議論の対象になっていませんね。一般的なケースを想定しているようです。
 しかしそもそも「厚生」とは何でしょうか。この問題に対する答えの与え方が、まず一番大きな論点になるように思います。この問題に対する応答の仕方によって、(1)から(3)までのどの立場をとるべきかについても議論も規定されてくるでしょう。
 例えば、ある複合的な幸福度指標というものがあり、その指標にしたがって人々の厚生水準の全体を増大させるためには、どのような厚生の再分配が望ましいのか、という問題が生じます。この問いは「再分配」の問いであると同時に、人間に対する「投資」の問いでもあります。障害者がどれだけ長生きできるのか。その長生きの程度を表す指標が、もし一国の「幸福度」を決める重要な要素であるとすれば、障害者が長生きできるような環境を整備していく必要がありますね。そのための整備は、再分配というよりも、「投資」と解釈することもできますね。
平等主義は、優先主義であれ十分主義であれ、こうした問題をどのように扱うでしょうか。人間の生、あるいは存在を、投資の対象とみなすことそれ自体に反対するでしょうか。あるいは、「できるだけ長生きする」という目標は、そもそも「厚生水準」として不適切でしょうか。「厚生」の中身を問うならば、これらの立場以外にも、投資の立場があるのではないかと思いました。

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