■私たちの資本主義は富を生まなくなってきた





沖公祐『「富」なき時代の資本主義』現代書館

沖公祐さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 とてもいい本です。
 アメリカ国内で獲得された総利潤のうちで、金融部門が占める割合は、第二次世界大戦直後は、9.5%でした。ところが2002年にはこれが41%になっている。まさに現代の資本主義は、金融によって利潤が生みだされているわけですね。
 しかし、現代資本主義の問題点は、「富」というものを、資本主義的な仕方で生産することが困難になっている、ということ。
例えば私たちは、YouTubeなどで無限に多くのすぐれた音楽や映像を享受しています。これは富です。でもそこには、ほとんど富を貨幣で交換するという「資本主義の論理」が働いていません。もちろん、月額のネット接続料は必要です。しかしそれを支払いさえすれば、私たちは無限に多くの富を享受することができる。富は、それを作る側も、とくに大儲けしたいという理由で作っているわけではない、儲けなくてもいい、そういう人が増えています。富はもはや、「労働の対象化された商品」という形態をとっていない。これはつまり、富は資本主義的に生産されていない、ということですよね。
では「富」とはなにか。それはすなわち、人間の創造的な素質の表出であります。富をこのように定義してみると、そこには、既存の尺度(貨幣)で測ることができる媒体はなく、労働時間で測れるものでもなく、それは結局のところ、ほぼ無料で共有しあうことがふさわしい。例えば、互いにネットを通じて、言葉で評価しあうことが望ましい。さらに言えば、人々はたんに富を享受するのではなく、自分で富を生み出すことができなければ、マルクス的な意味で富んでいるとはいえない。マルクス的に言えば、富とは、絶対的な生成であり、潜勢力の実現であります。そのような富は、自ら生み出すことによってしか、享受されないということになりますね。
こうなると、たんに富のコンテンツがフリーになるだけでなく、だれもが創造的な営みをしている社会こそ、富んだ社会だということになりますね。マルクス主義の側からみれば、一億総クリエイティブ社会が理想になる、と。それは資本主義を否定するものではないでしょう。
ただ現代の資本主義は、富をあまり生んでいない。富はシステムの外部で生まれている。それでもしかし、資本主義というのは、それ自体としては正当化可能である、ということになりますね。不思議な議論にみえます。資本主義は危機でありながらなぜ正当化可能なのか、と。


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