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1月, 2021の投稿を表示しています

■自由とは、自分で自分の性格を変えること

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    J.S.ミル『論理学体系4』江口聡/佐々木憲介編訳、京都大学学術出版会   佐々木憲介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ミルの論理学体系は、全体で、六つの編から成り立っています。本書は、その最後の第五編と第六編の翻訳ですね。本邦訳では、全四巻のうちの四巻目です。しかし翻訳としては、最初に刊行されたようですね。訳業の完成を、心よりお喜び申し上げます。また解説はとても充実していると思います。  本書所収の第五編は、「誤謬推理について」と題されています。これは、ミルが従来の議論を整理して示したものです。ミルの独創性は、さまざまな議論を整理する枠組みを作ったところにある、というわけですね。そのなかで、ライプニッツやデカルトには誤謬推理がたくさんある、と指摘している点は重要だと思いました。  本書所収の第六編は、「道徳科学の論理学」と題されています。道徳哲学から道徳科学への転換を企てる上で、中心的なトピックは、因果律です。人間の行為は、道徳的な行為を含めて、因果律の科学的解明によって説明できるのか、という問題です。説明できるとすれば、道徳哲学は、道徳科学によって基礎づけることができます。  ミルは、「意志の自由」と「必然性」をめぐって、必然論の立場に立ちます。これは科学的な立場をとる、という意味でしょう。すべては因果法則によって説明できる、という立場です。ではその場合、「意志の自由」は存在するのでしょうか。ミルは、この二つが両立すると考えます。  意志の自由とは、人間の行為が、その人の「動機」と「性格」によって原因づけられるという意味だ、とミルは解釈します。もし私たちが、ある人の動機と性格を完全に知ることができれば、その人が自らの自由意志で行為することを、説明できるというわけですね。しかしこのように考えると、自由意志の「自由」とは、人間の動機と性格に還元できるものとみなされます。私たちは自由に行為しているとはいっても、その自由な行為は、自分の性格と動機によって原因づけられているわけであり、性格や動機から自由な行為はない、ということになるでしょうか。  しかし他方で、人は、自分の性格を変える自由をもっています。ミルはそこに自由があると考えました。それぞれの場面では、人間は自分の性格によって、行為を因果づけられま

■天国と地獄のあいだにあった「煉獄」の喪失

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  荒川敏彦『「働く喜び」の喪失』現代書館   荒川敏彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書の副題は「いま読む!名著ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す」です。 現代社会における労働環境の変化から問題を解き起こして、ウェーバーの『プロ倫』を読むという、とてもアクチュアルな関心に支えられていて、勢いがあります。 と同時に、ウェーバーのテキストを読むというモチーフのもとで、さまざまな周辺学問・文化に言及されています。とても教養豊かな、これこそ人文教養の書というべき構成になっています。このように『プロ倫』が深い教養とともに語られるのは、日本における学問の一つの成熟を示してしますね。  例えば、詩人の吉野弘は、かたつむりが自分の殻を置き去りにして歩く姿を描いています。では、かたつむりは自分の殻を捨てて、身軽になって自由になったのかと言えば、死んでしまうのですね (212) 。  これはウェーバーのいう「鉄のゲホイゼ(檻・殻)」の理解に役立ちます。 私たち人間も、「鉄の檻・殻」から抜け出して自由になることができるのかと言えば、それはできるけれども、結局、死んでしまう。そういう捉え方ですね。この「鉄の檻」の問題は、「殻から出るのか、中にいるのか」という具体に問うと、不毛なことになってしまう。出ると死んでしまうので、鉄の檻のなかで生活しながら、苦痛に耐えるしかない、というような含意を導いてしまう。 ここで私たちは、「鉄の檻」を超えるような自由社会の構想力がないと、つまらない結論、つまらないウェーバー解釈に陥ってしまうでしょう。  いろいろ興味深い論点が凝縮されている本書ですが、二重予定説との比較で、中世におけるキリスト教世界には、「煉獄」があったことの意義について、以下に考えてみたいと思います (142-) 。  中世のキリスト教は、天国と地獄のあいだに「煉獄」という中間地点を作りました。人間には、完全な善人と、不完全な善人と、不完全な悪人と、完全な悪人がいる。このうち、完全な善人は天国へ、完全な悪人は地獄へ、そして不完全な善人と悪人はともに煉獄に行くとされます。煉獄は、試練の場になるわけですね。  ダンテの『神曲』では、煉獄が描かれます。これに対して近代のプロテスタント的な世

■「不良」とは、映画館でナンパする人のこと

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    遠藤薫編『日本近代における〈国家意識〉形成の諸問題とアジア』勁草書房   遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   夏目漱石はロンドン留学の二年間、不愉快であわれな生活を送ったといわれますが、そのときの「神経衰弱」と「狂人」的な感覚が、のちの文学作品の糧になっているのですね。人生において、こうした危機的な時期がないと、人はなかなか独創的な作品を生み出せないのかもしれません。  漱石のロンドン滞在で、もう一つ注目すべきは、彼がカール・ピアソンの『科学の文法』第二版を読んだということですね。実際に漱石は、さまざまな書き込みをしている。文学論よりも、この科学論のほうが、夏目漱石のいう独自の「個人主義」の思想につながっているとみることができます。これは興味深い論点です。  本書の第九章では、日本における「不良」文化の形成について、興味深い史実が掘り起こされています。 明治 44 年( 1891 年)、浅草で無声映画が公開されます。その当時、映画館は、不良がたむろするうす暗い空間として評判になったのですね。「不良」とは、当時、映画館でナンパする人のことであると。上映中に、女性の手を握る「にぎり」。女性に名刺などを渡す「ぶつ込み」。上映後に女性の後を付け回す「追かけ」。こうした行為は、不良少年のあいだで流行りました。無声映画の原作の名前を採って、「ジゴマごっこ」と呼ばれたのですね。結局、ジゴマは放映禁止になってしまうわけですが、これが日本で最初の不良文化の一つになったと。

■スピノザにとって悪とは悲しみ

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    浅野俊哉『スピノザ 〈触発の思考〉』明石書店   浅野俊哉さま、ご恵存賜りありがとうございました。   ニーチェは「良心」を批判する際に、スピノザを参照しているのですね。では、スピノザはニーチェの先駆者として位置づけるべきなのかどうか。そうではなくて、スピノザが論じた「良心」の意義を、ニーチェとは切り離して、改めて積極的に受け止めよう、というわけですね。  「良心の呵責(かしゃく)」というのは、悲しみの情動であります。情動とは、判断する意識を通過しない、直接的な身体的反応であります。悲しみは、善悪の判断を問題にしません。善と悪は、スピノザにとって、状況依存的な概念にすぎない、とみなされるのですね。それゆえ、スピノザにとって良心の呵責や後悔は、「人間の活動力を減少させる」がゆえに、悪である、ということになります。しかしこの活動力の減少は、正確に言えば、悪の基準を提供しているのではなく、ある移行に関する情動であるから、いわゆる善悪の判断の問題には、関係がない、と捉えるわけですね。 良心の呵責とは、悲しみの情動であり、それは喜びの情動と同様に、互いに触発しあう私たちの身体の共通性を通じて、一つの共同性を立ち上げる。そういう創造的な契機がある。悲しみの情動は、身体のレベルから発せられる異議申し立てであり、一つの「応答」であり、応答能力を引き出すものだ、と積極的に評価することができます。  悲しいからこそ、喜びを求めようとする。  しかし、このようなスピノザの見解に対して批判があるとすれば、悲しみを通じて求められる喜びは、悪を通じて求められる善であり、真の善、真の喜びとはいえない、というものでしょう。全能としての善は、全能の減退という欠如を媒介にして希求されるものなのかどうか。それは欠如を媒介に希求されるとして、真の全能、欠如のない全能へと至ることができるかどうか。 そのようなことを考えてみました。

■未来社会を描くための方法

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    ジョン・アーリ『〈未来像〉の未来 未来の予測と創造の社会学』吉原直樹/高橋雅也/大塚彩美訳、作品社   吉原直樹さま、高橋雅也さま、大塚彩美さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   未来制作の方法とは、次のようなものです。   (1)  過去の未来ビジョンに学ぶ。たとえばカルダー『 1984 年の世界』 (2)  予期に失敗した事柄を学ぶ。たとえば超音速のコンコルド旅客機の開発。 (3)  ディストピアのビジョンに学ぶ。たとえば大規模な監視が進んだ世界についてのビジョンとか。 (4)  ユートピアの検討。たとえばトーマス・モアの『ユートピア』 (5)  社会科学的な推論。たとえば、ウェーバーのいう「官僚制の鉄の檻」とか。 (6)  シナリオを検討する。たとえばジョナサン・ポリット『私たちが作った世界』   この最後の Jonathon Porritt の本は翻訳されていませんが、以下の YouTube の宣伝をみるかぎりでは、興味深いです。未来に対する想像力をかきたてます。 The World We Made: Alex McKay's Story from 2050 by Jonathon Porritt https://www.youtube.com/watch?v=AM25WGgBiP4   以上の六つの方法を組み合わせて、未来を研究するということですね。本書は、社会学者アーリの遺作。未来を考えるためのさまざまな方法論が語られています。  

■制度学派が描く「抗争的交換」の経済学

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  鍋島直樹『現代の政治経済学 マルクスとケインズの総合』ナカニシヤ出版   鍋島直樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   マルクス派とケインズ派の二つの流れを総合するかたちで、いわば制度派の経済学の全体像を描いた、すばらしい達成だと思います。研究成果のご刊行を、心よりお慶び申し上げます。 資本主義における市場交換は、決してフェアなものではなく、そこに非対称な権力の働きが含まれている。例えばボールズとギンタスが「抗争的交換 (contested exchange) 」と呼ぶ交換がある。これは例えば使用者と労働者の契約という、一般的な契約ですが、そこには権力の働きがあります。 労働者は雇用契約において、自分が提供する労働力を、サービス残業のような「コスト・ゼロ」のかたちで提供することを強いられてしまいます。なぜこのようなことが生じるのかといえば、労働者の労働の特性(質)が、完全な形で特定されていないからだ、というわけですね。労働時間は測れるけれども、労働の質と量はそうではない。一定の労働時間内に、労働者は手を抜いて、労働しない時間があるかもしれない。あるいは労働者は、自分の労働の質を、十全に発揮していないかもしれない。 しかし労働者は、十分な質の労働を発揮しないと解雇されてしまうかもしれないと恐れます。そしてそのリスクを恐れて、過剰に労働するかもしれません。ところが賃金が十分に低くて、働いても失業していても、同じ効用しか得られないという状況におかれれば、労働者は失業のリスクを恐れずに、最低限度の努力しかしないだろう、というわけですね。反対に、賃金が高くなれば、労働者は失業リスクを恐れて、働くようになると考えられます。 こうした賃金の駆け引きのなかで、労働賃金が決まるので、使用者と労働者の雇用契約は、「抗争的市場」だというのですね。 しかし正規雇用 / 非正規雇用という区別のように、雇用契約の期間を視野に入れると、この問題は別様に見えてくるでしょう。抗争的な面もありますが、労働者が組織に対してコミットメントする契機は、使用者との協力関係を築くことでもあります。慣習や慣行を含めて考えると、労働契約はまた別の交換形態として現れてくるでしょう。それがどのようなものであるのかを探ることが、制度派経済学に求められているでしょう。

■クィアの法哲学というフロンティア

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  綾部六郎/池田弘乃編『クィアと法』日本評論社 綾部六郎さま、池田弘乃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    法哲学のフロンティアですね。この冒険的な研究に、敬意を表します。 条例レベルではすでに、性自認や性指向を原因とする差別行為を禁止する動きがあります。性同一障害の特例法では、手術要件の合憲性をめぐって、最高裁が一定の司法判断を下しています。そうしたなかで、 2019 年 2 月 14 日、同性婚が認められていない現在の法制度は違憲である、という判断を求める裁判が、各地で起きました。 「クィア」というのは、レズビアンやゲイに固有の問題がまとめて同一視されることへの反対、レズビアンをめぐるジェンダーの権力非対称性の問題化、人種・階級とセクシュアリティの交差という視点、両性愛やトランスセクシュアリティへの視点、などを含む総合的な営みのことですね。 このなかに「アセクシュアル」という、性的欲求が欠如していたり、きわめて弱かったりするケースの問題も含まれます。イギリスの調査では、人口の約 1% は、そのような人たちであると。これは、性に対する嫌悪というよりも、性に対する無関心ということですが、これが何で社会的に問題になるのか。相手の求めに応じたくないという苦痛が、臨床的にみて病気と言えるレベルにまで上がる、ということですね。 この他、「ハッテン場(発展場)」という、見知らぬ男性同士が性交渉をするために利用する場(宿など)について、本書では興味深い検討がなされています。そこには「プロ」と呼ばれる人たちがいて、同意に基づく性交渉ののちに、多額の金銭を要求する。それで被害にあう人が結構いるのですね。プロは、モテるタイプの男性だと。トラブルに巻き込まれないための法的な対応が必要です。