■スピノザにとって悪とは悲しみ
浅野俊哉『スピノザ 〈触発の思考〉』明石書店
浅野俊哉さま、ご恵存賜りありがとうございました。
ニーチェは「良心」を批判する際に、スピノザを参照しているのですね。では、スピノザはニーチェの先駆者として位置づけるべきなのかどうか。そうではなくて、スピノザが論じた「良心」の意義を、ニーチェとは切り離して、改めて積極的に受け止めよう、というわけですね。
「良心の呵責(かしゃく)」というのは、悲しみの情動であります。情動とは、判断する意識を通過しない、直接的な身体的反応であります。悲しみは、善悪の判断を問題にしません。善と悪は、スピノザにとって、状況依存的な概念にすぎない、とみなされるのですね。それゆえ、スピノザにとって良心の呵責や後悔は、「人間の活動力を減少させる」がゆえに、悪である、ということになります。しかしこの活動力の減少は、正確に言えば、悪の基準を提供しているのではなく、ある移行に関する情動であるから、いわゆる善悪の判断の問題には、関係がない、と捉えるわけですね。
良心の呵責とは、悲しみの情動であり、それは喜びの情動と同様に、互いに触発しあう私たちの身体の共通性を通じて、一つの共同性を立ち上げる。そういう創造的な契機がある。悲しみの情動は、身体のレベルから発せられる異議申し立てであり、一つの「応答」であり、応答能力を引き出すものだ、と積極的に評価することができます。
悲しいからこそ、喜びを求めようとする。
しかし、このようなスピノザの見解に対して批判があるとすれば、悲しみを通じて求められる喜びは、悪を通じて求められる善であり、真の善、真の喜びとはいえない、というものでしょう。全能としての善は、全能の減退という欠如を媒介にして希求されるものなのかどうか。それは欠如を媒介に希求されるとして、真の全能、欠如のない全能へと至ることができるかどうか。
そのようなことを考えてみました。