■自由とは、自分で自分の性格を変えること

 



 

J.S.ミル『論理学体系4』江口聡/佐々木憲介編訳、京都大学学術出版会

 

佐々木憲介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ミルの論理学体系は、全体で、六つの編から成り立っています。本書は、その最後の第五編と第六編の翻訳ですね。本邦訳では、全四巻のうちの四巻目です。しかし翻訳としては、最初に刊行されたようですね。訳業の完成を、心よりお喜び申し上げます。また解説はとても充実していると思います。

 本書所収の第五編は、「誤謬推理について」と題されています。これは、ミルが従来の議論を整理して示したものです。ミルの独創性は、さまざまな議論を整理する枠組みを作ったところにある、というわけですね。そのなかで、ライプニッツやデカルトには誤謬推理がたくさんある、と指摘している点は重要だと思いました。

 本書所収の第六編は、「道徳科学の論理学」と題されています。道徳哲学から道徳科学への転換を企てる上で、中心的なトピックは、因果律です。人間の行為は、道徳的な行為を含めて、因果律の科学的解明によって説明できるのか、という問題です。説明できるとすれば、道徳哲学は、道徳科学によって基礎づけることができます。

 ミルは、「意志の自由」と「必然性」をめぐって、必然論の立場に立ちます。これは科学的な立場をとる、という意味でしょう。すべては因果法則によって説明できる、という立場です。ではその場合、「意志の自由」は存在するのでしょうか。ミルは、この二つが両立すると考えます。

 意志の自由とは、人間の行為が、その人の「動機」と「性格」によって原因づけられるという意味だ、とミルは解釈します。もし私たちが、ある人の動機と性格を完全に知ることができれば、その人が自らの自由意志で行為することを、説明できるというわけですね。しかしこのように考えると、自由意志の「自由」とは、人間の動機と性格に還元できるものとみなされます。私たちは自由に行為しているとはいっても、その自由な行為は、自分の性格と動機によって原因づけられているわけであり、性格や動機から自由な行為はない、ということになるでしょうか。

 しかし他方で、人は、自分の性格を変える自由をもっています。ミルはそこに自由があると考えました。それぞれの場面では、人間は自分の性格によって、行為を因果づけられます。しかし人は、自分の性格を変化させることができれば、次の場面でどのように行為するかについてのコントロール力を身につけたことになるでしょう。これが自律的な主体の理想ということかもしれません。自らの行為を因果づける要因そのものを制御する、という意味での自由=自律です。

 しかしこれは、ミルにおいては、自分がなりたい人格(性格)の人間になるという意味での自律=自由を意味するでしょうか。またその場合、自分が理想的な人格を陶冶したとすれば、その後は、性格を変える自由を必要としない、ということになるでしょうか。

人は、つねに性格や人格を変更する制御力をもつという意味での自由を必要としているわけではありません。人は、理想的な人格に到達したら、その人格を変える自由は必要ないでしょう。自分の性格を変更しなくても自律しているといえるような人生を歩んでいる人は、自由は必要ない、いやその人は、別の意味で自由である(つまり自律している)、ということになるでしょう。


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