■制度学派が描く「抗争的交換」の経済学

 


鍋島直樹『現代の政治経済学 マルクスとケインズの総合』ナカニシヤ出版

 

鍋島直樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

マルクス派とケインズ派の二つの流れを総合するかたちで、いわば制度派の経済学の全体像を描いた、すばらしい達成だと思います。研究成果のご刊行を、心よりお慶び申し上げます。

資本主義における市場交換は、決してフェアなものではなく、そこに非対称な権力の働きが含まれている。例えばボールズとギンタスが「抗争的交換(contested exchange)」と呼ぶ交換がある。これは例えば使用者と労働者の契約という、一般的な契約ですが、そこには権力の働きがあります。

労働者は雇用契約において、自分が提供する労働力を、サービス残業のような「コスト・ゼロ」のかたちで提供することを強いられてしまいます。なぜこのようなことが生じるのかといえば、労働者の労働の特性(質)が、完全な形で特定されていないからだ、というわけですね。労働時間は測れるけれども、労働の質と量はそうではない。一定の労働時間内に、労働者は手を抜いて、労働しない時間があるかもしれない。あるいは労働者は、自分の労働の質を、十全に発揮していないかもしれない。

しかし労働者は、十分な質の労働を発揮しないと解雇されてしまうかもしれないと恐れます。そしてそのリスクを恐れて、過剰に労働するかもしれません。ところが賃金が十分に低くて、働いても失業していても、同じ効用しか得られないという状況におかれれば、労働者は失業のリスクを恐れずに、最低限度の努力しかしないだろう、というわけですね。反対に、賃金が高くなれば、労働者は失業リスクを恐れて、働くようになると考えられます。

こうした賃金の駆け引きのなかで、労働賃金が決まるので、使用者と労働者の雇用契約は、「抗争的市場」だというのですね。

しかし正規雇用/非正規雇用という区別のように、雇用契約の期間を視野に入れると、この問題は別様に見えてくるでしょう。抗争的な面もありますが、労働者が組織に対してコミットメントする契機は、使用者との協力関係を築くことでもあります。慣習や慣行を含めて考えると、労働契約はまた別の交換形態として現れてくるでしょう。それがどのようなものであるのかを探ることが、制度派経済学に求められているでしょう。

 


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