■天国と地獄のあいだにあった「煉獄」の喪失

 



荒川敏彦『「働く喜び」の喪失』現代書館

 

荒川敏彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書の副題は「いま読む!名著ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す」です。

現代社会における労働環境の変化から問題を解き起こして、ウェーバーの『プロ倫』を読むという、とてもアクチュアルな関心に支えられていて、勢いがあります。

と同時に、ウェーバーのテキストを読むというモチーフのもとで、さまざまな周辺学問・文化に言及されています。とても教養豊かな、これこそ人文教養の書というべき構成になっています。このように『プロ倫』が深い教養とともに語られるのは、日本における学問の一つの成熟を示してしますね。

 例えば、詩人の吉野弘は、かたつむりが自分の殻を置き去りにして歩く姿を描いています。では、かたつむりは自分の殻を捨てて、身軽になって自由になったのかと言えば、死んでしまうのですね(212)

 これはウェーバーのいう「鉄のゲホイゼ(檻・殻)」の理解に役立ちます。

私たち人間も、「鉄の檻・殻」から抜け出して自由になることができるのかと言えば、それはできるけれども、結局、死んでしまう。そういう捉え方ですね。この「鉄の檻」の問題は、「殻から出るのか、中にいるのか」という具体に問うと、不毛なことになってしまう。出ると死んでしまうので、鉄の檻のなかで生活しながら、苦痛に耐えるしかない、というような含意を導いてしまう。

ここで私たちは、「鉄の檻」を超えるような自由社会の構想力がないと、つまらない結論、つまらないウェーバー解釈に陥ってしまうでしょう。

 いろいろ興味深い論点が凝縮されている本書ですが、二重予定説との比較で、中世におけるキリスト教世界には、「煉獄」があったことの意義について、以下に考えてみたいと思います(142-)

 中世のキリスト教は、天国と地獄のあいだに「煉獄」という中間地点を作りました。人間には、完全な善人と、不完全な善人と、不完全な悪人と、完全な悪人がいる。このうち、完全な善人は天国へ、完全な悪人は地獄へ、そして不完全な善人と悪人はともに煉獄に行くとされます。煉獄は、試練の場になるわけですね。

 ダンテの『神曲』では、煉獄が描かれます。これに対して近代のプロテスタント的な世界では、例えばミルトンの『失楽園』では、煉獄がなくなります。

 中世の人たちの多くは、自分は死んだら煉獄に行くだろうと思いました。自分の親兄弟で、先だった人たちも、煉獄に行ったと考えました。それで、自分が生きている間に、先だった親兄弟たちが、少しでも早く天国に行けるようにと祈ったのですね。煉獄の存在は、このように、死者と生きている人たちのあいだに、道徳的な紐帯を生み出すことに資したのですね。

 ところがカルヴァンの二重予定説は、人間が天国に行くか地獄に行くか、すでに決まっている、と発想します。これはつまり、死者と生者、親兄弟と自分、のあいだの紐帯を断ち切って、救済を求める個人を、徹底的に孤立させる効果をもちます。すでに決まっているので、だれも助けてくれません。

 これに対して、煉獄というものを想定すると、人はその煉獄に滞在する時間を短くするために、現世においてカトリック教会から贖宥状を購入すればよいという、経済的交換の発想がうまれます。お金を払えば、自分の魂は天国に近づくという発想です。このような考え方を現世において制度化するとで、人間は勤勉に働いて贖宥状を購入するかもしれませんね。しかし勤勉に働くのであれば、すでに贖宥状を買う必要がないわけですけれども。勤勉な労働の生活によって、死後は天国の近くに行けるわけですから。

 

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