■アイン・ランドの思想は利己主義と異なるセルフィッシュネス
田村洋一様、ご恵存賜り、ありがとうございました。
アイン・ランドの翻訳です。この本は、以前にも翻訳が出ていましたが、今回、ナサニエル・ブランデンが執筆した部分を、はじめて訳して収録した、ということですね。これは2,5,6,16,18章であり、全体としてかなりの量になります。
アイン・ランドの思想を知りたいのであれば、以前の翻訳書で十分ですが、しかしブランデンは、アイン・ランドの弟子にして愛人であり、彼が何を書いているのかは興味深いです。
実際に読んでみると、「セルフィッシュネス」という言葉の意味の広がりを、よく理解することができました。ブランデンによって、アイン・ランドの思想がうまく語られているという面があります。
例えば、セルフィッシュネスとは道徳であり、それは、奇跡や啓示や禅の「無心」など、現世的な言説から離れたところに求める道徳ではないということですね。
あるいは、社会のために奉仕するとか、自己犠牲を払うというのは、セルフィッシュネスの倫理に反するけれども、しかし「愛する人のために自己を犠牲にする」ことは、セルフィッシュネスの道徳であるということですね。
「より高い価値」と「より低い価値」があるとき、「より高い価値を犠牲にしてはならない」というのも、セルフィッシュネスの道徳であるとされます。ランドのいう「セルフィッシュネス」は、いわゆる「利己心」とは異なりますね。
決まり切った定型的な仕事をしている人は、自尊心を欠いており、その意味で、セルフィッシュネスの道徳をもっていないのですね。
セルフィッシュネスの道徳は、人間にとって知的に成長する能力が無限の発展の可能性を与えることを教えてくれます。これもまた、いわゆる「利己的」という言葉の意味とズレていますね。
およそ以上のようなことを、ブランデンは主張しています。リバタリアンとして知られるアイン・ランドの人間観を、ブランデンがこのように解説しているわけですが、これは私が「成長論的自由主義」と呼んでいる思想と近いです。自分の中の内在的な高次の価値を追求せよ、ということになるでしょう。
いわゆる利己的な人とは、このような高次の価値を優先するという動因をもたず、自分の中の低次な欲求(欲望)を優先させてしまう人である、というイメージがあります。しかし本書が提唱しているセルフィッシュネスの道徳は、このような低次の欲望を優先させる人に対して批判的なのですね。