■人権を保障するための哲学とは
木山幸輔さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
これまでの木山さまのご研究の成果が、このような大著として刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。
テイラー研究会でも、何度かご報告いただきました。懐かしく思います。
本書の草稿段階で、私は詳細に読ませていただきました。そしてコメントをいくつか記してお送りしましたが、その中で、私が中心的な論点だと思ったことを、以下に再掲します。
「ここで二元論における平等概念には、二つの種類があると思います。一つは自分の意見を表明する自由(表現の自由)であり、もう一つは福祉権です。前者の表現の自由は、グリフィンのいう規範的主体性から導くことができるように思います。ただし、「政治支配への平等な影響力の行使」という意味での「投票権」は、グリフィンから導くことができません。問題は、表現の自由という権利保障を超えて、平等な投票権を「人権」概念に含めるかどうかです。含めるなら、二元論になるでしょうが、しかしこれを認める立場は、かなり危険な介入主義になると思います。他方、福祉権については、グリフィンのいう規範的主体性の第三の条件から導くことができ、その限りでは一元論に還元できます。そして以上に関する限りでは、私はグリフィンの一元論の立場をとったほうが、人権概念の定義としては、いいと思いました。しかし、乳幼児や重度の障碍者の場合、表現の自由や投票権を行使できないくらい、自分の意志を伝えることに困難があるわけですが、そのような人間存在にも人権を認める必要があるでしょう。その場合の人権は、木山さんがここで展開するデモクラシー論では擁護できず(というのもデモクラシーに参加する能力がほぼ欠けているので)、ロールズのように、基本財としての福祉権に対する例外的な扱いとして認めるような理論装置が必要ではないかと思います。以上が、私の中心的なコメントです。」
今回、改めて、最後の章を読んで、サーチャー型の開発・援助構想(293)は、現在、最良の理念ではあるけれども、このやり方は結果として、途上国が自由民主主義の体制を築く方向に支援することができないかもしれない、と思いました。その場合は支援する側も、支援を再考しなければならないでしょう。
例えば、中国やロシアのような国も、人権の薄い理念に基づいて、サーチャー型の開発・援助構想を取り入れて、途上国を支援することが可能です。それでもよいのか、という問題です。
人権の理念を厚く解釈して、実質的な意味での主体性と自由と民主主義を、途上国の人々にも獲得してもらいたいと上から配慮するのかどうか。人権の哲学は、この問題になにか有益な考察を与えるべきではないか、と思いました。