■「共感」について


坂本達哉『「共感」の思想史』岩波新書

 

 坂本達哉さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「共感」という感情をベースにして「よい社会」を作ろうという課題は、私たちが、たんに「利己心」や「啓発された(利他性を考慮に入れる)利己心」をベースに社会を作っていくことのオルタナティヴとして位置づけられます。

共感をベースにして作られたルールは、利己心をベースにして作られたルールとは異なるはずです。ではどう違うのか。もしかすると、あまり違いはないのかもしれません。これは、J.S.ミルが、共感論と正義論を矛盾なく接続していく過程で、すでに統合されていたのかもしれません。

「啓発された利己心」は、共感をベースにして、他者の利益を考慮することができます。望ましい「正義」の基準も、この啓発された利己心と共感の感情から、提示できるかもしれません。

本書の終章で紹介されているように、フライシャッカーは、ヒュームを「情動的共感(エンパシー)」論の代表者として位置づけ、スミスを「認知的共感(エンパシー)」の代表者(体系的に再構築した人)として位置づけました。認知的共感は、暖かい思いやりに欠ける一方で、啓発された利己心と両立します。また認知的共感は、内集団を超えて、外集団に対して共感していく力を発揮します。共感できない外国人を排除するといった、自国民中心主義を避けることができるでしょう。

ただし、スミスは認知的共感論から、高貴な祖国愛を求める一方で、世界人類愛のようなグローバルな次元の認知的共感については、あまり現実的ではないと考えたようです。それでも私たちの時代は、すでにメディアを通じて、世界中の出来事に触れることができます。21世紀の私たちの認知的共感は、経験的な次元でも、世界市民を形成する基盤になるかもしれません。

アマルティア・センは、スミスの共感論をあまり評価しませんでした。センはむしろ、スミスの「公平な観察者」に注目して、ナショナリズムを克服することを展望しました。しかし私たちは、スミスの認知的共感論を理論的に拡張して、世界市民になることができるのではないでしょうか。そのようなメディア環境が生まれているのではないでしょうか。公平な観察者の基準も、最適な認知的共感の基準も、いずれも変化していくでしょう。ではこの二つの基準をどのように理論化するのか。規範理論の大きな課題だと思いました。

ロールズの「無知のヴェール」論は、自分がもし金持ちだったら、あるいは貧者だったら、どういう社会のルールに賛成するか、という問題を提起します。

例えばAさんは、いま「富裕層」に属していて、「貧困層」の人たちの生活は悲惨だと感じているとします。けれども、自分がもし貧困層に属していれば、そのようには考えず、富裕層になってもそれほど幸せではないと思うし、貧困層の生活も幸せだと感じるかもしれません。反対に、Aさんはいま、「貧困層」に属していて、富裕層の生活はうらやましいと思い、貧困層の生活は嫌だと思っているとします。けれどももし自分が富裕層の生活をしたら、それでも不満を感じているだろうし、貧困層の生活もそれほど悪くない、と感じるかもしれません。

このように、共感は、実際には矛盾に満ちていて、多様です。共感というのは、一つの認知や感情ではなく、相反する複数の認知や感情です。人によって感じ方もその程度も異なる。そのような場合に、どんな種類の共感が、社会の基礎に置かれるべきなのか。

この問題を考察するとき、すでに「良い社会」のイメージがある程度まで想定されていないと、答えを導くことは難しいですね。

例えば、ある音楽を演奏して、それをネットで公開したり、販売したとしましょう。その音楽がどれだけ人々の共感を得ることができるのかは、不確実ですし、ケース・バイ・ケースです。理想としては、すべての演奏が、平等に共感を得るべきなのかもしれません。しかし実際には、広く浅く共感されるような音楽と、限られた人たちに深く共感される音楽がある。共感の「限界」、共感の「深堀」。こうした共感のあり様は、人々の利己心に基づいているわけではありません。公平無私の観察者の視点も、あまり説明力がないでしょう。

マイナーな音楽を聴いて、それに深く共感し、そしてその音楽が自分の人生の起動力になる。このような共感を、社会の構成原理として考察するためには、どのように議論を拡張していくべきなのか。そのようなことを考えました。


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毎日新聞のインタビュー記事につきまして、訂正します。

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