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■生産的な消費とは

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マーシャル『経済学原理』第一巻、西沢保 / 藤井賢治訳、岩波書店   西沢保さま、藤井賢治さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    マーシャルの『経済学原理』の新訳です。本書はその第一巻であり、このあと、第四巻まで予定されているのですね。経済学の古典の新しい翻訳の刊行を、心よりお喜び申し上げます。  この第一巻は、前半が本文で、後半が付録のエッセイ集になっています。注がたくさんあり、実質的な本文の量は、相対的に少ないですね。主に、経済学の基本概念と、方法論について述べられています。 マーシャルは基本的に、バランス感覚のある人で、経済学という学問が、快楽主義や市場原理主義に対する批判をこえて、学問として正当であることを説明します。利己主義の観点に立たなくても、経済学を擁護できるというわけですね。これはいまの時点からみると凡庸ですが、このようにバランス感覚をもって学問を擁護する人が現れると、学問は一つの「パラダイム」になって普及していく。そのような経緯があったのだと思います。  マーシャルは、経済学という学問が、専門用語ではなく日常用語を用いるので、さまざまな誤解や一貫性のなさに陥ることを、ていねいに省察しています。そして、ある一定の方向に、経済学の価値観を体系的に展開しています。  例えば 84 頁ですが、「現在の欲求よりは将来の欲求に備えようとする労働はとくに生産的だと言われる。」とあります。現在のぜいたく品を買うために労働するよりも、将来のさまざまな欲求充足のために労働する方が、生産的な労働であるというのですね。これは一つの価値観であり、生産力主義的な価値関心だと言えます。  類似の問題として、消費が生産的であるかどうか、という問いは、興味深い問いの立て方です。「ニュートンやワットのような人が、彼の個人的支出を倍増させることによって、能率を1%でも上げることができるのであれば、消費増加分は真に生産的であろう。」 (89)  マーシャルは、このような価値判断を地代の問題に応用します。消費によって、その消費した貨幣額を超える生産が帰結するのなら、その消費は生産なのですね。この「消費 = 生産」という視角は、次のような道徳的判断を導くように思います。  もし所得が増えて消費が増えたときに、その消費の増...

■贈与の履歴をブロックチェーン化する

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荒谷大輔『贈与経済 2.0 』翔泳社 代真理子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   ある人に贈与する。そしてその事実を、ブロックチェーンで記録して、 150 人以下のコミュニティで、情報を共有する。するとそのコミュニティでは、贈与すればそれだけ信頼を勝ち得ることができる。そのような「贈与→信頼」のコミュニティを作ってはどうか、という提案ですね。  私はこの贈与経済のコミュニティに参加したいと思いますが、しかし同時に、これは怖いシステムになるかもしれないし、成功しないかもしれないし、という不安もあります。  不安の一つは、自分が贈与したことに対して、コミュニティがあまり評価しない可能性です。すると一年後に、私はもしかすると、 150 人中、 150 番目の信頼度しか勝ち取ることができないかもしれません。するとどうなるでしょう ? 私はおそらく、脱退したいと思うでしょう。そして新しいコミュニティに参加したいと思うでしょう。しかし、あるブロックチェーンのコミュニティで低く評価された私を、別のコミュニティは受け入れてくれるのでしょうか。不安です。 この場合、ブロックチェーンのコミュニティは、すべて自発的結社です。それぞれのコミュニティは、誰が参加できるかを決める権利をもっています。すると、他のコミュニティで低く評価された人を、受け入れないかもしれませんね。 このような問題を解決するためには、贈与経済 2.0 は、メタ・コミュニティの視点で、コミュニティ間のルールを決めなければなりませんね。しかし誰がメタ・コミュニティのルールを決めるのでしょうか。自生的に、すぐれたルールが生まれるのでしょうか。不安です。 もしかすると、ほとんどフリーライドするようなメンバーが 9 割くらいになって、贈与されても「負債の感覚」や「何か返さないといけないという罪悪感」をまったく抱かずに、ひたすら「フリーライドで儲かる」という感覚で参加するような人も出てくるかもしれません。そのような場合、贈与経済 2.0 は成り立つのでしょうか。  おそらく、うまくいく贈与経済のコミュニティは、メンバーを制限するのでしょう。フリーライドは一定以上認めない、というルールを作って、参加者を選別するのでしょう。  しかしそれにしても、私が贈与できて他人に...

■今年聴いた音楽5選(2024)

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  那須耕介さんが亡くなられて、 3 年と3か月が経ちました。皆様、いかがおすごしでしょうか。年の瀬が迫ってまいりました。  *  今年私が YouTube で出会った音楽のリストをご紹介します。 110 曲くらいです。   https://www.youtube.com/watch?v=kKPY_VzZ3EM&list=PLFExZbc_M4ZO_Sffukx_ZaFN0iJ3kBxyR    今年は、 1 月に沼野雄司著『トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在』音楽之友社を読んで、大いに刺激を受けました。 昨年は雑誌「レコード芸術」が休刊となり、クラシック音楽ファンにとっては残念なニュースでしたね。沼野さんは、それまで「レコード芸術」にエッセイを寄せていたのですが、余儀なく中断されました。本書は、それまでに寄せられた連載のエッセイと、その続きを収めています。 とくに、現代日本の作曲家たちの紹介が興味深いです。まだ CD 化されていない、けれども YouTube で聴くことができる、最新の日本現代音楽のシーンがたくさん紹介されていました。私と同世代、あるいはさらに若い世代の作曲家・演奏家たちが活躍しています。その創作活動から、大いに刺激を受けました。 一方で、今年の夏、私は韓国に行く機会がありました。この機会に、韓国の「国楽」と呼ばれる伝統音楽の CD を、ネットでいろいろ調べてみました。するととても興味深い。韓国の国楽の CD は、 YES24 というサイトで検索したり購入したりすることができます。 https://www.yes24.com/Mall/Main/Music/003?CategoryNumber=003 日本にも「雅楽」がありますが、韓国の場合、政府が国楽の演奏家たちを育て、そのなかから国民的な音楽が生まれています。 YouTube にも、すてきな国楽の演奏がたくさんありました。国楽は、観光資源としても文化資本としても、きっと多くの人を惹きつけるでしょう。また、韓国では国楽の一部が現代音楽化して、真に芸術的な音楽が生まれています。私は一時期、国楽の沼にはまりました。 *  今年、印象に残った音楽をあえて 5 つ選んでみますと・・・   ■まず、バ...

■社会主義の具体的なデザインとは

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松井暁『ここにある社会主義』大月書店 松井暁さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    最近、松井先生の最新刊をお送りいただいたばかりですが、すみません、前著からコメントさせていただきます。 本書は、「ここにある社会主義」というテーマで、いまどんな実践が社会主義の社会を作っていくのかという問題に、具体的な指針とビジョンを与えています。   2020 年の意識調査で、「現在、社会主義の理念は社会進歩にとって大きな価値をもつか」という問いに「そう思う」と答えた人の割合は、日本では 21% でしたが、多くの国では 50% 程度になりました。アメリカでも 39% 。日本よりも高いですね。中国では 84% と断トツです。ちなみにロシアは 55% でした。  社会主義という言葉を使うとき、本書のように、「ソ連・中国のようなソ連型社会体制を社会主義とは認めません」 (21) 、それに対して「北欧諸国は今日の世界で最も社会主義に接近している」と評価するのは、私は、適切ではないように思います。むしろ、「いい社会主義」と「悪い社会主義」という言い方をした方がいいのではないでしょうか。  ソ連も中国も、思想としては社会主義であり、いい社会主義の国を作ろうとしたし、いまも作ろうとしている。まずこの点を認めよう、ということです。その上で、しかしなぜ社会主義の建設は、悪い社会主義になってしまうのか。この問題を分析し、説明することが必要だと思います。この点が、自由主義と社会主義のあいだの最大の論点だと思うのです。  もう一つの論点は、労働者と市民が生産手段を共有して、自らの意思で運営するという社会主義の理想です (26) 。このような理想を、国家と市場のいずれも媒介にしないで、どのように運営することができるのでしょうか。このビジョンをどこまで真剣に探求できるでしょうか。私はここに、社会主義の問題があると考えます。もしコーポラティズムをこえて、社会主義にいたる道筋を具体的に描くことができないとすれば、私はこの生産手段の共有のビジョンは、コーポラティズムで止まっている、と思います。これまで誰が、コーポラティズムを超える社会主義のビジョンを具体化したのか、という問題です。  他方で、日本で 2020 年に、「労働者協同組合法」が成立したのは興味深い...

■リベラルなフェミニズムはいかにして可能か

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  野崎綾子『新版 正義・家族・法の構造転換 リベラル・フェミニズムの再定位』勁草書房 井上達夫さま、池田弘乃さま、松田和樹さま、野崎努さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書は、 2003 年に刊行された本の新版です。新たに、川崎修、斉藤純一、ダニエル・フット、松田和樹、池田弘乃の各氏の論稿を、第三部に収録しています。 野崎綾子さんは、 2003 年に亡くなりました。 32 年の生涯でした。しかし、これだけすぐれた研究成果を残されたことは、本当に驚きです。文章から、知性の類まれな機微が伝わってきます。私は自分が論じていることの甘さを、再点検しなければならないという気持ちにさせられます。 解説で井上達夫先生が述べられているように、野崎綾子さんは、まさに「天に祝福された人」であり、才能に恵まれていたことが分かります。本書は、現代の思想的な問題を先駆けて論じています。大きな問題を正面から受け止めて、一貫した態度で論述を進めるその技量は、本当にすばらしいです。  フェミニズムはこれまで、リベラリズムに反対する思想であるとみなされてきました。しかし、フェミニストたちがリベラリズムに反対する三つの理由をすべて受け入れたとしても、リベラルなフェミニズムは成立する、というのですね (7) 。   (1) 女性問題を、「個人の内部に残っている差別意識」「意識の遅れ」「女性の主体性の欠如」等の、非構造的な要因に帰着させうるかどうか。この問題に「否」と答えたとしても、リベラルな立場を採ることができます。リベラルな立場は、自由放任の立場ではない。社会構造をリベラルなものに変革しようとする立場です。女性問題を非構造的な要因に帰着させるわけではありません。   (2) 女性問題は、近代化の徹底、女性の主体的意識の確立などにより、自然に解決していくと判断できるかどうか。この問題に「否」と答えたとしても、リベラルな立場を採ることができます。依存関係を認め、その依存のあり方を、公平にするという発想は、リベラルな発想です。   (3) リベラリズムという社会構想のなかに、すでに女性問題を解決しうる社会構想が十分に含まれているといえるのかどうか。この問題に「否」と答えても、リベラルな立場を採ることはできます。それはリベラリズムを新た...

■晩年の小林秀雄はなぜ失敗したのか

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橋爪大三郎『小林秀雄の悲哀』講談社メチエ   橋爪大三郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   一読して、これはとても重要な研究であると理解しました。本書は、小林秀雄に対するきわめて破壊力のあるパンチだと思います。晩年の小林秀雄は、本居宣長論の連載に取り組んだのですが、それは大きな失敗だったというのですね。 ではなぜ失敗だったのか。そしてもし成功させるとすれば、本居宣長をどう論じるべきだったのか。この二つの問題に、本書は答えています。 まず、小林秀雄はなぜ失敗したのか。端的に言えば、小林秀雄には、この日本社会がどうあるべきかについてのビジョンがなかった、ということですね。社会規範構想を論じるための枠組みがなかった。小林秀雄は、ただ本居宣長の肉声を聞くという、感性的な方法で、本居宣長のテキストと向き合っていた。 ところが本居宣長のすぐれた点は、彼の「肉声」にあるのではないのですね。書かれた「テキスト」にある。純粋に学問的に、自分の研究を成し遂げようとしたところにある。これに対して小林秀雄は、学者の学問というものを軽蔑していて、学者の学問がもつ意義を理解できていない。本居宣長がどのようにすぐれているのか。それは思想史を学問的に読み解くための知識と準備がなければならない。ところが小林秀雄には、それがないのですね。  これはきわめて厳しい批判であると思います。  本居宣長は、 35 年かけて『古事記伝』を書いた。国学を儒教から独立した学問として確立した。これはきわめて大きな達成です。 日本では平安時代以降、神道は、仏教に従属していました。江戸時代になると、今度は儒教と神道が融合します。しかし本居宣長の貢献によって、「国学」が確立すると、神道は、仏教や儒教と独立した世界として現れます。 国学は、日本の自前の思想である、ということになります。国学は、日本人のナショナル・アイデンティティを作るために必要な、神話を提供するのですね。そしてこの国学によって純化された神道は、大日本帝国の思想を提供します。 この国学と神道と大日本帝国の複合体、すなわちナショナリズムのイデオロギーを、私たちはどのように受けとめるべきなのでしょうか。本居宣長を論じるということは、このナショナリズム思想の源流をどのように受けとめるべきか...

■東京五輪音頭、建国音頭、増産音頭を聴いてみた

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遠藤薫編『現代日本の〈国家意識〉とアジア 二つの東京オリンピックから考える』勁草書房   遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。     1964 年に開催された東京オリンピックで、最も有名になった曲は「東京五輪音頭」だったのですね。三波春夫のバージョンが最も人気だったそうですが、他にも、橋幸夫、坂本九、北島三郎・畠山みどり、大木伸夫・司富子、つくば兄弟・神楽坂浮子などが歌いました。しかし三波春夫のレコードは、 130 万枚も売れたのですね。すごいです。私も YouTube で見ましたが、いいですね。  当時は、「東京音頭」も流行っていました。この曲は、元々は、 1932 年に、丸の内の界隈の旦那衆が、丸の内のための盆踊りの曲を、西条八十と中山晋平のコンビに発注したということですね。つまり元々は、丸の内のための曲だった。ところが翌 1933 年に、歌詞を変えて、東京音頭としてリリースされたのですね。興味深いです。 東京音頭は、戦時中に流行ったわけですが、その当時は政府もまた、いろいろな音頭を発注して作っていた。例えば、「東京祭」「選挙音頭」「建国音頭」「増産音頭」などです。しかしどれも、成功しなかったようですね。これに対して東京音頭は、旦那衆の遊び心で作られたから、人びとの間で広まったと。興味深いです。  「建国音頭」(唄:小唄勝太郎、市丸、楠木繁夫)を、私も YouTube で聴いてみました。歌も作曲もとてもいいですね。しかしそれでも流行らなかった。 https://www.youtube.com/watch?v=NFm7-oEVrf0 「増産音頭」 ( 波岡惣一郎・鈴木正夫・小唄 勝太郎・市丸・山本麗子 ) は、 1943 年に作られていますが、これもいい曲ですね。 https://www.youtube.com/watch?v=q3gIrRspm1Y 増産することや、戦争することに対して、まったく緊迫感がない。庶民の感覚で受け入れられるようなものとして歌われている。不思議な感覚になりました。しかもこれらの曲は、いずれも東京音頭を作曲した中山晋平が作ったのですね !  建国とか増産といったテーマが、庶民的な曲として作曲依頼されていたこと。しかもその曲のクオリティが高いこと。それでも流行ら...