■リベラルなフェミニズムはいかにして可能か
井上達夫さま、池田弘乃さま、松田和樹さま、野崎努さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
本書は、2003年に刊行された本の新版です。新たに、川崎修、斉藤純一、ダニエル・フット、松田和樹、池田弘乃の各氏の論稿を、第三部に収録しています。
野崎綾子さんは、2003年に亡くなりました。32年の生涯でした。しかし、これだけすぐれた研究成果を残されたことは、本当に驚きです。文章から、知性の類まれな機微が伝わってきます。私は自分が論じていることの甘さを、再点検しなければならないという気持ちにさせられます。
解説で井上達夫先生が述べられているように、野崎綾子さんは、まさに「天に祝福された人」であり、才能に恵まれていたことが分かります。本書は、現代の思想的な問題を先駆けて論じています。大きな問題を正面から受け止めて、一貫した態度で論述を進めるその技量は、本当にすばらしいです。
フェミニズムはこれまで、リベラリズムに反対する思想であるとみなされてきました。しかし、フェミニストたちがリベラリズムに反対する三つの理由をすべて受け入れたとしても、リベラルなフェミニズムは成立する、というのですね(7)。
(1)女性問題を、「個人の内部に残っている差別意識」「意識の遅れ」「女性の主体性の欠如」等の、非構造的な要因に帰着させうるかどうか。この問題に「否」と答えたとしても、リベラルな立場を採ることができます。リベラルな立場は、自由放任の立場ではない。社会構造をリベラルなものに変革しようとする立場です。女性問題を非構造的な要因に帰着させるわけではありません。
(2)女性問題は、近代化の徹底、女性の主体的意識の確立などにより、自然に解決していくと判断できるかどうか。この問題に「否」と答えたとしても、リベラルな立場を採ることができます。依存関係を認め、その依存のあり方を、公平にするという発想は、リベラルな発想です。
(3)リベラリズムという社会構想のなかに、すでに女性問題を解決しうる社会構想が十分に含まれているといえるのかどうか。この問題に「否」と答えても、リベラルな立場を採ることはできます。それはリベラリズムを新たに刷新することによってです。
野崎綾子さんは、以上のように考えます。
では(1)の問題に、どうやって構造的な解決を与えるのか。これはとても難しい。個々の家族や世帯に対して、男女の育児・家事のサービスを平等化するように、強制することはできないとしても、男女間で平均して平等になるように、社会を変革することはできる。リベラリズムはこのように発想します。しかしどうやってこれを達成するのか。思想的には簡単に言えても、実効的な政策を考えることは難しい。
(2)の問題も、難しいですね。リベラリズムは、自律した人間たちの社会契約という発想を超えて、依存する人間たちの社会契約という発想でもって、ケア労働の公平の分配を基礎づけることができるのかどうか。理論的に考えても、難しいですね。
リベラリズムは、個人権が大切だ、といいます。正確に言えば、個人権型のリベラリズムは、個人権が大切だと考えます。このタイプのリベラリズムは、既存の家父長制道徳に対抗するための、一つの思想であるとみなされています。しかし、男女が結婚して世帯(家族)を構成する場合、その結婚を、自律した人間たちの自由な契約に還元することはできません。もし還元できるなら、複数婚や親子の結婚などを認めるところまで、リベラリズムは進まなければならないでしょうし、また結婚に際して、一方は家事や育児を免除されるといった自由契約も認めなければならないでしょう。結婚や家族というのは、どこかで道徳的に線引きされます。そこには個人権では説明できない要素があるでしょう。むしろ慣習によって説明できる面があるでしょう。
私は、家族の問題については、個人権型のリベラリズムではなく、慣習ベースのリベラリズムに、理論的な可能性があるのではないかと思います。しかしこれは難しい問題であり、慎重かつ周到に考えなければなりません。
最後に、本書第一章の最後で、アマルティア・センのケイパビリティ論が高く評価されていますが、私は、センの議論は結局のところ、ロールズやドゥウォーキンの議論よりも優位ではないと考えています。この議論は、リベラリズムの問題を考えるうえで、とても重要だと思うので、野崎さんと議論したかったです。