■愛なき享楽人、精神なき専門人

 



 

中野敏男『ヴェーバー入門』ちくま書房

 

中野敏男さま、ご恵存賜り、ありがとうございます。

 

 ウェーバーの『プロ倫』でよく言及されるフレーズが、すでにシュモラーが1900年に発表した『一般国民経済学要綱』にある、ということですね。

 「〔今日では〕富裕層は際限ない享楽を追求し、また中産層は彼らの贅沢を羨むから、いずれにおいても内面を幸福で満たすことができない。そこで数年前にある偉大な技術者は、この傲慢な時代を、的外れとは言えない次の言葉で特徴づけた。「愛なき享楽人、精神なき専門人、その無のものが、人間性の歴史上到達したことのない高みにすでに立っている、と自惚れている」と。」(12-13)

 ウェーバーはこのシュモラーの文章を、パラフレーズしているわけですね。

シュモラーや歴史学派の人たちは、この引用文ような認識から、当時の心理学の見地に基づいて、倫理的な社会を築くための規範的制度構想を探求します。

これに対してウェーバーは、制度とその背後にある動機(エートス)を分けて、エートスに注目します。ウェーバーはおそらく、どんなによい制度を作っても、人間を突き動かす動機(エートス)が失われてしまえば、それは善い社会ではない、抜け殻のようになってしまう、と考えたのでしょう。

 ウェーバーが関心を寄せたのは、初期のプロテスタントたちの禁欲エートスというドライビング・フォースでした。プロテスタントたちは、なぜ現世で禁欲するのか。プロテスタントたちは、「それが神の使命だから」と考えました。プロテスタントたちは、それ以上に意味を追求することは無意味だ、と思い、むしろ意味を問わないまま業務(仕事)に専念できるときに、「職業人」たりうると考えたわけですね(201-202)。人生の意味を求めていると、かえって仕事ができないので、人生の意味も薄まってしまう、ということでしょうか。

 このプロテスタントたちの非合理的な禁欲実践は、しかし、「神の使命」がなくなってしまえば、価値あるものにはみえません。

 プロテスタントたちは、この現世(日常社会)を、そしてまた私たちの生活スタイルを、徹底的に合理化しようとしました。しかしなぜ合理化すべきなのかについては、知性的に問いませんでした。反知性主義の立場に留まりました。しかし私たち現代人は、なぜ世界を合理化すべきなのか、これを知性主義的に問い、覚醒される必要があるというわけですね。

 私たちがウェーバーからの学ぶべきは、このように、人生の意味を問う知性主義的な態度であり、その知性による覚醒である、と(263)。これは中野先生のこれまでのウェーバー研究で一貫した視点であると思います。これは私が「問題主体」という言葉で表現した主体の理想に近い考え方です。

 では、知性主義によって意識が覚醒されたとして、その後、私たちは自分の人生に対してどのような意味を与えるのでしょうか。人生の意味を考えるためには、なにか理論とか教義がとか、考えるためのテキストが必要であるようにみえます。おそらく、ウェーバーの宗教社会学論集や「経済と社会」は、人生の意味を探求するための素材として、比較社会学のテキストとして位置づけることができるのでしょう。

 


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