■ウェーバーの三つの「意味」

 



 

中村文哉/鈴木健之編『行為論からみる社会学』晃洋書房

 

宇都宮京子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

ウェーバーが「意味」というとき、三つを区別しているのですね。

「行為者が実際に主観的に捉えている意味」

「多くの人が、多くのケースにおいて近似的に主観的に捉えている意味」

「概念的に構成された純粋類型において、類型として考えられた単数・複数の行為者が主観的に考えている意味」

以上の三つです。

 第三の「概念的に構成された意味」は、個々の文脈を超えて、歴史的に意味づけられたり、あるいは普遍的な仕方で意味づけられたり、いろいろな操作可能性が生まれるでしょう。これは、理念型を通じて構成されるものでしょう。

 「生きる意味」というものを考えるときにも、こうした三つの区別は役立ちます。「はたして生きる意味はあるのか」と問うとき、それはウェーバーにおいては、理念型を用いて歴史的に再構成しうる意味が、その価値をめぐって、間主観的に評価しうるものとなるのでしょう。

 自分の行為を自ら意味づけるのではなく、整合的な合理性の視点から、自分の行為の間主観的・歴史的な意味を再構成してみる。そのような迂回的な解釈の回路が、「生きる意味」というものをいっそう確実なものにしてくれる、ということでしょうか。

 そのような回路は、歴史家が事後的に、歴史物語を回顧して語る文脈で、はじめて意味を与えられるのであり、当事者にとっては分からない点が多いのかもしれません。すると、自分が生きる意味を探るよりも、他人が生きる意味を探るほうが、社会学的にみて豊かな検討に開かれている、ということかもしれません。

 

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