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6月, 2023の投稿を表示しています

■維新の会で自治体組織は余力を削がれた

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    鈴木健介 / 藤岡達磨編『グローバリゼーションとモビリティ』関西学院大学出版会   鈴木健介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、関西学院大学の先端研究所の「グローバル化とモビリティ」研究班の成果です。さまざまな論文が掲載されています。いずれも地域に密着した内容で、レベルが高いです。  大阪府では 2010 年代に、橋下徹知事と大阪維新の会で、徹底的な行政改革(行政業務の効率化)を進めました。しかしそこで、自治会組織の余力を削いだため、地域社会の自律性や連携の強化は進まなかった、ということなのですね。これは自治会組織の予算構造と活動実態の問題です。同論文で、大阪市の波速区におけるさまざまな活動が紹介されています。また、コロナ禍での活動の転換についても詳しく語られています。興味深く読みました。

■半導体産業を国家が導くには

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    高乗正行『ビジネス教養としての半導体』幻冬舎   高乗正行さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書は、いま問題になっている半導体市場について、その歴史と実態をコンパクトにまとめています。分かりやすいです。  韓国や台湾では、半導体産業は国策として、政府が大規模に産業政策を主導しました。これに対して日本では、 1990 年代後半あたりから、国が主導する経済産業政策が全般的に機能しなくなり、国家は産業を育成するリスクを取らなくなりました。その当時、日本で半導体産業に名乗りを上げたのは、新日本製鉄などの鉄鋼メーカーだったのですね。しかしそれが失敗してしまう。  新日本製鉄は、 1998 年に事業を撤退します。そのときのコメントに、「高い授業料だった。価格変動の激しさや、製品の世代交代の速さなど(鉄鋼業と)違いすぎた」と述べたそうですね (26) 。 1,000 億円の赤字を出したと。  半導体のような市場は、やはり国家主導で開拓する。国家がリスクを引き受けて、産業をコーディネートする。そうすべきだったのだけれども、日本はできなかった。本当は、優秀な国家官僚が現れて、日本全体で優秀な人材を抜擢するような仕組みを作らないといけなかった。ではそれが日本にできなかった。いま私たちは、日本の産業政策に何が必要なのかを見極めたいものです。  

■コロナ感染症対策と新自由主義

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    マリー = モニク・ロバン『なぜ新型ウィルスが、次々と世界を襲うのか ? 』 杉村昌昭 訳、作品社   杉村昌昭さま、作品社編集部さま、ご恵存賜り、ありがとうございます。    本書は、ジャーナリストである著者のマリー = モニク・ロバンが、 62 名の科学者にインタビューを行ってまとめたものです。  マリー = モニクは、『モンサントの不思議な食べもの』というドキュメンタリー映画を作って話題になりました。この本においても、マリー = モニクは科学的な知見を広く集め、コロナ・パンデミックに関する多角的な分析になっています。  最も面白かったのは、訳者解説です。このパンデミックへの各国の対応は、新自由主義だから悪い、と訳者は言います。  コロナ・ウィルスの起源となった中国の経済体制は、他の国と同様に、新自由主義であります。しかし中国の経済は、権威主義的な国家と結びついている。だからこれを、「権威主義的新自由主義国家」と呼ぶことができるでしょう。 コロナ・ウィルス感染症に対して、中国とフランスの対応はともに、ロックダウンという強権的なものでした。これは、権威主義的新自由主義の体制による対応であると言えます。問題は、こうした統治手法に対して、リベラルも左派も、賛成ないし追従しているという点です。いったいこれはどういうことか、というわけですね。 新自由主義を批判する左派は、権威主義的な統治にも反対するはずです。だからロックダウンという手法にも反対するはずです。しかしそうなっていない。 新自由主義を批判する左派は、どうしたのか。新自由主義とロックダウンに反対する左派は、主流の左派ではなく、アナキズムである、ということでしょう。アナキストたちは、リバタリアンとともに、ロックダウンに反対するでしょう。 米国では、共和党支持者のリバタリアンが、政府の権威主義的な政策に反対しました。訳者によれば、このような権威主義批判(ロックダウン批判)は、この本のなかで紹介されている、どの科学者の見解でもないということですが、これはつまり、訳者独自の見解なのですね。 日本では、コロナ感染に対しては「コンフォーミズム」や「自主規制」を前提にした対応がなされました。権威主義的な権力は、強く行使されませんでした。アナキズムの立場からすれば、

■鈴木大拙とウェーバーの接点

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    横田理博「鈴木大拙とマックス・ヴェーバー」『理想』   横田理博さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   これは大論文ですね ! とてもスリリングで、ダイナミックで、知的に周到であります。恐れ入りました ! 何よりも着眼点がいいです。 1904 年にアメリカのセント・ルイスで開かれた「芸術・科学会議」で、ウェーバーと鈴木大拙の二人がそれぞれ報告していた、というのですね。二人はこの会議に居合わせたのだと。 ウェーバーの報告は、農業事情に関する報告でした。鈴木大拙の報告は、 10 分間という短いもので、「仏教はニヒリスティックか?」というものでした。  この二人の報告は、ほとんど関連のないテーマですけれども、のちにウェーバーが「ヒンドゥー教と仏教」を書くときに、仏教については大拙の本『大乗仏教概論』 (1907 、ロンドン ) を参照しているのですね。  では、ウェーバーと大拙の仏教理解は同じだったのかというと、違うのですね。しかも大拙はその後、考え方を変えたと。 大拙が『大乗仏教概論』で語った仏教は、大乗仏教一般ではなく、日本の大乗仏教に近いものだという解釈もあるのですね。ここら辺の読み解きは、とてもスリリングであります。日本における仏教の受容は、特殊であったがゆえに、近代資本主義の導入を容易にしたのかどうか。とても重要な問題に迫っています。

■市場の力を利用した消費者の保護

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    丸山千賀子『消費者問題の変遷と消費者運動 改訂版』開成出版   丸山千賀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書は、消費者問題に関する決定版のテキストです。情報が豊かで、整理されています。 消費者被害額の推計は、毎年の消費者白書に掲載されますのですね。それによると、 2013 年の消費者被害・トラブル額は、約 6.0 兆円。なんと GDP の 1.2% なのですね。驚きました。 その後、 2018 年には 6.1 兆円というピークを迎え、 2020 年には 3.8 兆円に減っています。これは大きな減少ですね。対策に成果があったのだと思います。 消費者への被害は、たんに法を整備すればよいとか、罰金を高くすればいいというのではなく、業界ごとに自主的な基準を作って、その基準をさまざまなステイクホルダーによって監視してもらうのがよい、ということですね。 実際、 2000 年代以降は、そのような方向で法と社会の連携が進んでいる。本書はこれを「市場の力を利用した消費者の保護」と呼んでいます。 市場の力というのは、まず自主規制です。そしして監視の担い手が、行政や司法ではなく、取締役会、株主、投資家、消費者、消費者団体、取引先、競争事業者、などのアクターによって、それぞれの仕方で行われるようになった (149) 。その意味で、市場の担い手たちが倫理を引き受けるようになった、と言えそうですね。  

■学長の任期撤廃は許されるのか

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    寄川条路編『学問の自由と自由の危機』社会評論社   寄川条路さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   本書の副題は、日本学術会議問題と大学問題です。 平山朝治先生の論稿を、興味深く読みました。 いま筑波大学の学長は永田氏で、本当は学長の任期があったのに、ルールを改正して、無期限の任期にしてしまったのですね。朝日新聞で、この問題が取り上げられています。以下、引用します。  「永田氏は 2013 年 4 月に、任期途中で病気で退いた前任者を継いで学長に就任。例外的に 8 年間の在任が認められていた。今回の学長選で、学内規則の変更で上限 6 年の学長任期が撤廃されたほか、常勤教職員による意向調査投票も廃止された。選考会議メンバーも永田氏が任命していた。このため、教職員の間から「現職の続投ありきの手続きが進められている」と不満が噴出し、公開質問状や選出の延期を求める要求書が送付されたりして学内が紛糾していた。」 https://www.asahi.com/articles/ASNBN6V6XNBNUJHB00T.html  このように、学長の任期が撤廃されただけでなく、常勤教職員による意向調査投票も廃止されたのですね。これでは学長の独裁体制になってしまう。  学長の任期の撤廃は、短期的にみれば、大学の統治力を上げて、大学のランクを上昇させることに資するかもしれません。例えば筑波大学は、軍事関係の研究という点で、科学研究費を多く獲得したりするかもしれません。あるいは、政府からの公的資金を、さまざまな面で得ることが容易になるかもしれません。しかし長期的にみると、別の学長が選ばれたときに、リスクが高くなる。現在のロシアや中国が抱える統治リスクと同じようなリスクを抱えることになるでしょう。  この任期撤廃の問題と、もう一つは、軍事研究の範囲に、大学が全体としてどのような制約自らに課すのかという問題があります。軍事研究についていえば、永田氏の見解は、「相手国の領土や国民を侵すことにつながるアタッキング(攻撃)するもの」とか、「攻撃に使う兵器開発に関わるのが軍事研究だ」 (64) というのですね。  この定義では、ほとんどの軍事研究が許されることになります。  しかし平山先生は、こうした一連の動き(すなわち、軍事研究

■高田保馬の超然主義

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    吉野浩司 / 牧野邦昭編『高田保馬自伝「私の追憶」』佐賀新聞社   吉野浩司さま、牧野邦昭さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    高田保馬の自伝を、このような書籍として出版されましたことを、心よりお祝いするとともに、心より感謝いたします。  私もこれまで、高田保馬に大きな影響を受けてきました。どうしてこれほどの理論家が生まれたのか。高田はどんな人生を生きたのか。プライベートな生き方からも学びたいと思わせる、偉大な学者ですね。  本書の底本は、 1957-1978 年に『週刊エコノミスト』に連載された「私の追憶」というエッセイなのですね。文章がとても練られていて、文学的な作品としても読むことができます。以下に、印象に残った部分を引用します。  「超然主義  学校関係におけるすべての集団的活動を離れる。孤高の生活を営む。これを超然主義というならば、私は善意の超然主義の学生であった。私は学生生活をつづけるにしては十分ともいうべき学費を兄に受けていた。兄は進みて卒業後、外遊せよとすすめていた。その用意もあったはずである。子がなかったので、一人の弟を仕立ててやろうという愛情に包まれた私は仕合せであった。学生生活を二年の延長したのを毛ほども咎めることもなかった。  学生時代の私は服装においてあまりにも質素であった。田舎の高校生の時のままを改めず、足袋ははかず、頭髪は二分刈、しかもそれは友人との刈り合いである。制帽は一度なくしたのでそれから無帽である。九つ年上の郷里の姉の仕立てた衣類も、少し上等のは着用しなかった。大学の廊下をいつも跣足〔はだし〕で歩いていた。孤高超然が私をこうさせたのである。当時、京都の新聞は京大文科の奇人として兼常清佐と高田とをあげていた。」 (44)  この高田の超然主義に、学ぶべき点が多いですね。  もう一つ興味深いのは、高田の思想が、平等主義から無政府主義へと「思想流転」した、ということです (189-) 。高田は、スペンサーやジンメルに大きな影響を受けます。自由主義的な社会学に、影響を受けます。しかし高田は、戦時中は、権威主義や保守主義なナショナリズムのもつ意義を理解していましたし、実際に、大日本帝国を擁護する世界観を構築しました。  高田が戦争をどう反省したのかについては、この

■87歳、研究の到達点

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    折原浩『マックス・ヴェーバー研究総括』未來社   折原浩先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。    折原先生は、 87 歳にして、この本を刊行されました。まさに偉業であります。 80 代にして、ご自身の研究を総括するという、研究者としてなすべき、あるいは研究者として成し遂げたいと思う、人生の到達点を示していると思います。  もちろん、研究業績の観点からいえば、折原先生の最高の成果はこれまでの著作の中にあるのでしょう。しかし研究人生を振り返るとき、どのような眺めになるのか。どのような自己評価になるのか。これはとても興味深いことであります。  この本の前半は、これまでの研究を振り返るさまざまエピソードから構成されています。後半は、ウェーバーのテキストの読解から成り立っています。  前半のエピソードは、とても豊富で、折原先生がこれまでいかに論争的であったかをよく示しています。しかも一つ一つの出来事に対して、折原先生は、その都度、省察を残して研究人生を歩んでこられました。これは研究者の一つのロール・モデルであり、これから後続の方々に参照されていくでしょう。  本書で興味深いのは、ウェーバーが日本の資本主義の発展をどのようにとらえていたか、という点です。ウェーバーによれば、明治開国前後の日本は、資本主義の導入を阻止するような宗教的・伝統的な要素がなく、その意味では「白紙状態」で、上からの近代化と資本主義化を進めることができたというのですね (118) 。 しかし折原先生は、これに異議を唱えています。日本の資本主義をどう捉えればいいのかについては、これからもっと慎重に検討しないといけないけれども、折原先生の初期の理論、「マージナル・マン」論からすれば、ウェーバーのいう白紙状態とは、マージナルな世界における坩堝(るつぼ)として捉えることができる、というのですね。 本書後半のウェーバーの「ヒンドゥー教と仏教」の読解では、日本で「救い主」の威信をそなえた社会層が跋扈していなかったことが、「白紙状態」の一つの要素であるとの解釈が示されています (258) 。

■経済成長か、それとも少子化対策による長期的繁栄か

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    野原慎司『人口の経済学』講談社メチエ   野原慎司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   スミスなどの古典派から得られる規範的含意は、人口を増やすためにはできるだけ所得を平等に分配して、貧しい人でも子どもを産み育てられるようにすればいい、というわけですね。むろん経済的に豊かになると、反対に、子どもを産まなくなることもあります。十分な資産があれば、リタイアした後に、子どもに世話にならなくてもよいからです。この観点からすれば、老後の生活保障を充実させると、人はあまり子どもを産まなくなる、ということになるでしょう。 所得の再分配を強化したら、経済成長はあまり見込めないかもしれないけれども、人口が増える可能性がある。そうであれば、国の長期的な繁栄という視点に立って、所得を平等化したほうがいいですね。しかし本当にそうなのか。経済学史や経済思想史は、それだけでは答えてくれません。 例えばケインズは、定常人口のもとでは、「より平等な所得分配によって消費を増加させる政策、および、生産期間の大幅な延長が有利となるように利子率を強制的に引き下げる政策」が、必要であると主張しました。 実際にはこうした政策が難しいことを、ケインズは理解していました。しかしうまくいけば、人口が減っても、一人当たりの生活水準が改善されます。 ケインズはなぜこのように考えたのか。それはケインズが、民族間・人種間の生存競争という「帝国主義的な世界観」を捨てて、どの民族が人口を成長させるかということには関心を持たずに、その意味でコスモポリタンの視点を持っていたからですね。 しかしケインズは、他方では帝国主義的な発想も持っていた。それは白人の生活水準を上げて、有色人種の人口を抑えるような政策が望ましい、という視点です。どうやってそれを実現するのか。これは、帝国主義、進化論、生存競争というものを、いかにして克服しうるのかという問題でもあります。本書を読むかぎり、ケインズはあまり深い考察を残しているわけではなさそうですね。  またこの点で、ケインズ以外に、規範理論的にみて魅力的な議論を立てている人はいないように見えました。  蛇足ですが、社会的投資国家の観点からいえば、ミュルダール夫妻のまだ翻訳されていないスウェーデン語の 1934 年の著作、 Kris