■日本の小論文のスタイルは、もうやめよう

 


 

遠藤薫ほか編『災禍の時代の社会学 コロナ・パンデミックと民主主義』東京大学出版会

 

遠藤薫さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

渡邉雅子先生の「民主主義の二つのかたちと日本の選択 小論文教育から考える価値観と市民像」を大変興味深く読みました。

 

 フランスでは、バカロレアなどで、長時間の小論文が課されていますが、その論文のパタン(書き方)は、いまの日本人には、実はあまり参考にならないと思いました。

「序論で問題提起をする」というスタイルはよいのですが、その後の展開部分は、フランスでは「正反合」という弁証法で書かないといけないのですね。つまり、ある意見とそれに対する反対意見を、総合しなければならない。フランスでは、意見の対立が社会の分裂を生む危険があります。そこで小論文では、意見の対立を弁証法的に総合する知性が求められるのですね。これは政治家や官僚など、政治を運営する人たちには、とくに求められるのでしょう。

 しかし日本では、状況は正反対だと思います。もっと意見の対立を顕在化させて、二大政党制を築いて議論するような作法が必要です。この点で日本は、米国に学ぶ必要がありそうですね。そして実際に、日本の小論文のパタンは、米国に学んでいる部分が大きいですね。

ところが日本の小論文のスタイルの問題点は、文脈を重視しすぎることです。小論文では、おそらくこうだろうとか、このように言って間違いないだろうという、いわば「空気」のような評価空間を当てにするところがありますね。そのような空気を重視して、論述を進めていく。これは大いに問題があるのではないかと思いました。

 「日本の思考表現スタイルの課題は、場の読み取りと間主観性を手段にしているため、判断の基準が明確にならないことと判断に時間がかかることである。状況を読み取るため情報を集めているうちに選択肢が狭まり、もはやこれしか取る道はないという「状況」そのものが行動を決める。」(151)

 このようなわけなのですね。日本人は、小論文においても実際の行動においても、どのような主張と判断をすべきかについて、「状況を読むこと」に長けた人がすぐれているとみなされる。このような行動様式では、二大政党制の基礎を築くことはできないですね。

 これを改革するには、小論文においても、二つの対立する判断が、どちらも正当でありながら、緊張関係にあることを明確にする。そのような論述のスタイルを求めることが、ふさわしいのかもしれません。これはウェーバーの社会学のスタイルですね。


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