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■「学問の自由」は、教授会の自治権ではない

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    寄川条路編『大学の自治と学問の自由』晃洋書房   寄川条路さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   清野惇先生の論文「現行法と大学の自治」を興味深く拝読しました。  「大学の自治」は、憲法が保障する「学問の自由」に由来する大学の権利だといわれています。しかしこれは、実定法によって保障されているのでしょうか。それとも、法令運用上の理念に留まるのでしょうか。 もし法令運用上の理念にすぎないのだとすれば、憲法で保障されているわけではなく、現在の憲法の下で、廃止される可能性もある、ということでしょう。   2014 年に、学校教育法が改正されました。それ以前は、「大学の自治」は「教授会の自治」というかたちで認められていたけれども、この改正によって、教授会は、大学の学長の諮問機関という位置づけになりました。これはつまり、学部ごとの「教授会の自治」がなくなり、大学の自治は、学長を中心とする全体組織の自治を意味するようになった、ということでしょう。教員たちが民主的に議論して一つの部局を統治するのではなく、教員たちは、民主的な仕方で学長を選び、その学長のリーダーシップに従う、ということになりました。これは、議論を下から積み上げるのではなく、リーダーを民主的に選んでそのリーダーシップに従うという点で、すでに自治とはいえないかもしれません。みんなで選んだ学長が、各部局の自治を尊重するかどうかは、ケース・バイ・ケースになりました。  しかしこのような法改正が、憲法が保障する「学問の自由」を否定したわけではない。「学問の自由」の理念は、「部局ごとの教授会の自治=自由」を否定しましたが、それぞれの大学が、自治を行う自由を否定していません。これはしかし、学問の自由にとって後退を意味することなのかどうか。この点は大いに議論すべきですね。 一つの解釈としては、 2014 年の学校教育法の改正は、「大学(教授会)の自治」を否定した点で、すでに憲法違反であるといえるかもしれません。しかし本書所収の清野論文は、そこまで踏み込んだ立場をとっていませんでした。  

■リバタリアン・パターナリズムの原型

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      アマルティア・セン/バーナード・ウィリアムズ編『功利主義をのりこえて』後藤玲子監訳、ミネルヴァ書房   後藤玲子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    この本の原書は 1982 年に刊行されてますが、その当時、若きアマルティア・センは、さまざまな哲学者たちとの交流のなかで、自らの思考を紡ぎだしていたことを示しています。この本に所収されている論文で、とくにすぐれた論文が入っているようにはみえませんが、しかしその後、執筆者たちのなかから、ビッグ・ネームになる人たちがたくさん生まれていますね。ロールズ、エルスター、テイラー、ガットマン、などなど。こうしたすぐれた学者たちを、「功利主義を超えて」という一つのテーマでまとめているわけですから、編集能力として、すぐれた才能を発揮していると思います。 ただ全体としては、どのように方向に功利主義を乗り超えるのか。ぼんやりしたイメージになります。全体をまとめた序章を読んでも、とくに功利主義を超えることの意義が見えるわけではありませんが、しかし各章の議論を読めば、さまざまな知の可能性があることが見えてきます。本書は、 1980 年代の経済思想・経済哲学を知るうえで、一つのプラットホームになるような達成ですね。 私は以前に本書を、原書でざっと読んだことがありました。今回、改めて興味深いと思ったのは、第 12 章のアイザック・レヴィの「自由と厚生」です。これはリバタリアン・パターナリズムの思想を準備するような考察を示しています。 厚生主義は、社会順序の理念に基づいて、望ましい社会選択をすることができる(社会的厚生水準を最大化できる)と考えます。しかし、この社会順序に対して、何らかの価値的な制約を課そうとする思想が、リベラリズムやリバタリアニズムなどの教説です。例えば、リベラリズムは、他者にある行為を強制するという選択肢(強制行為)を、社会順序を決めるさいの選択肢からあらかじめ外すべきだ、と考えるでしょう。行為は、他者に危害をもたらさないかぎり、認めうる。リベラリズムはこの「危害原理」を、社会的厚生主義に対するアプリオリな制約条件とみなすでしょう。 しかし、レヴィの論文は、他者にある行為を強制するのではなく、ある行為を促すような制度的な支...

■内田義彦が描く理想的な近代主体

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  山田鋭夫『内田義彦の学問』藤原書店   山田鋭夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   内田義彦の仕事(研究)を、時系列で分かりやすくたどっています。要所要所でその内容が整理されているので、とても明快に頭に入ってきました。 内田は、若いときは、河上肇や大塚久雄や大河内一男や山田盛太郎や星野芳郎などの学者たちに対して、自分なりに批判し、自分なりの新しい立脚点を作ろうとします。しかし内田の批判は、結果として、一貫していないものになってしまったのですね。内田はおそらく、壁にぶちあたったのでしょう。それで、その後は、研究を迂回して、つまり日本の研究の文脈を離れて、スミス研究に没入していくのですね。 「・・・内田は、一方で社会主義的なもの(ないし階級的観点)からブルジョア的なものを批判したかと思えば(山田・大塚・星野批判)、他方でブルジョワ的なもの(純粋資本主義的なもの)から半封建的なもの(日本資本主義)を批判し、あるいはそうした批判を行っている大河内を評価する(大河内評価)。市民主義はあるときは批判され、あるときは評価される。」 (107)  戦時中から戦後にかけての内田は、市民的なものと階級的なものをめぐって、揺れていた。では内田は最終的に、この二つの観点をどのように止揚したのかというと、「市民社会とは〈主体的個人によって下から形成される分業の体系〉ということになり、そういうものとしての市民社会が――資本主義・社会主義を問わず――歴史貫通的に発展していくし、発展しなければならない」 (114) という理解にいたるわけですね。  この問題については、私も拙著『社会科学の人間学』で論じたことがありますが、戦後日本の社会科学は、マルクスとウェーバーというテーマを中心として、経済体制が資本主義であれ社会主義であれ、どちらの体制でも「主体=市民」的に生きることを、学問研究の道徳的な理念に掲げた。内田の場合も、そのような文脈のなかで、同じような一つのケースを示していると思います。つまり、どちらの体制になっても、思考の点では主体的に生きる、自律して生きる、という市民の理想ですね。  内田は「下からの市民社会」という理想について検討しました。資本主義と社会主義の制度的な問題から離れて、労働者階級、あるいは農民階級...

■所得が減少すれば、欲求も減退するのか

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    J.A.シュンペーター『経済発展の理論』(初版)八木紀一郎/荒木詳二訳、日本経済出版社   八木紀一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    シュンペーターの『経済発展の理論』は、現在、岩波文庫で読むことができる翻訳を含めて、改訂版の翻訳であり、これまで初版は訳されていませんでした。初版には、その後削除された「第七章」(最後の章)が収められています。学史研究としては、ここが読みどころというわけですね。  この初版の第七章は、「国民経済の全体像」というタイトルがつけられ、本書全体のまとめとして位置づけられています。内容は、研究アプローチの方法論的自覚にかかわるものであり、若きシュンペーターの、きわめてシャープな考察が多様な方向に展開されています。ただ、全体としてまとまりがあるわけではありません。シュンペーターとしては、自分が本書で展開した考察が、たんに大胆であるだけでなく、じつに繊細で、シャープな方法論的自覚の下に述べられているのだよ、ということを示したかったのだと思います。この最後の第七章を読むと、シュンペーターの議論は容易に批判できないことが分かるでしょう。  例えば、経済発展の要因として、「欲求の持続的発展」を挙げる人がいます (440) 。古典派経済学は、この要因に特別な重きを置きませんでしたが、当時の心理学、社会心理学、社会学のアプローチでは、欲求の増大という想定がなされることがありました。資本主義経済の下では、欲求が増大するので、経済が発展する。そのような説明は、素朴ではありますが、私たちの直観に訴えるところがあります。  しかしシュンペーターによれば、欲求の増大は、所得増大の「結果」であって、基礎的な動因とみなすことはできない、というのですね。欲求の充足が新たな欲求を作り出すわけではない、と (442) 。 新しい欲求は、所得の増大によって説明できる。これがシュンペーターの発想です。もしそうだとすれば、所得の減少は、反対に、私たちの欲求の減退を説明するでしょう。  現在の日本社会においては、可処分所得がほぼ定常的な推移を示しています。そのような状況では、新しい欲求が生まれにくい、といえるかもしれません。例えば若者たちの所得は減少傾向にあります。それに応じて...

■自由とは、自分で自分の性格を変えること

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    J.S.ミル『論理学体系4』江口聡/佐々木憲介編訳、京都大学学術出版会   佐々木憲介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    ミルの論理学体系は、全体で、六つの編から成り立っています。本書は、その最後の第五編と第六編の翻訳ですね。本邦訳では、全四巻のうちの四巻目です。しかし翻訳としては、最初に刊行されたようですね。訳業の完成を、心よりお喜び申し上げます。また解説はとても充実していると思います。  本書所収の第五編は、「誤謬推理について」と題されています。これは、ミルが従来の議論を整理して示したものです。ミルの独創性は、さまざまな議論を整理する枠組みを作ったところにある、というわけですね。そのなかで、ライプニッツやデカルトには誤謬推理がたくさんある、と指摘している点は重要だと思いました。  本書所収の第六編は、「道徳科学の論理学」と題されています。道徳哲学から道徳科学への転換を企てる上で、中心的なトピックは、因果律です。人間の行為は、道徳的な行為を含めて、因果律の科学的解明によって説明できるのか、という問題です。説明できるとすれば、道徳哲学は、道徳科学によって基礎づけることができます。  ミルは、「意志の自由」と「必然性」をめぐって、必然論の立場に立ちます。これは科学的な立場をとる、という意味でしょう。すべては因果法則によって説明できる、という立場です。ではその場合、「意志の自由」は存在するのでしょうか。ミルは、この二つが両立すると考えます。  意志の自由とは、人間の行為が、その人の「動機」と「性格」によって原因づけられるという意味だ、とミルは解釈します。もし私たちが、ある人の動機と性格を完全に知ることができれば、その人が自らの自由意志で行為することを、説明できるというわけですね。しかしこのように考えると、自由意志の「自由」とは、人間の動機と性格に還元できるものとみなされます。私たちは自由に行為しているとはいっても、その自由な行為は、自分の性格と動機によって原因づけられているわけであり、性格や動機から自由な行為はない、ということになるでしょうか。  しかし他方で、人は、自分の性格を変える自由をもっています。ミルはそこに自由があると考えました。それぞれの場面では、人間は自...

■天国と地獄のあいだにあった「煉獄」の喪失

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  荒川敏彦『「働く喜び」の喪失』現代書館   荒川敏彦さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書の副題は「いま読む!名著ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み直す」です。 現代社会における労働環境の変化から問題を解き起こして、ウェーバーの『プロ倫』を読むという、とてもアクチュアルな関心に支えられていて、勢いがあります。 と同時に、ウェーバーのテキストを読むというモチーフのもとで、さまざまな周辺学問・文化に言及されています。とても教養豊かな、これこそ人文教養の書というべき構成になっています。このように『プロ倫』が深い教養とともに語られるのは、日本における学問の一つの成熟を示してしますね。  例えば、詩人の吉野弘は、かたつむりが自分の殻を置き去りにして歩く姿を描いています。では、かたつむりは自分の殻を捨てて、身軽になって自由になったのかと言えば、死んでしまうのですね (212) 。  これはウェーバーのいう「鉄のゲホイゼ(檻・殻)」の理解に役立ちます。 私たち人間も、「鉄の檻・殻」から抜け出して自由になることができるのかと言えば、それはできるけれども、結局、死んでしまう。そういう捉え方ですね。この「鉄の檻」の問題は、「殻から出るのか、中にいるのか」という具体に問うと、不毛なことになってしまう。出ると死んでしまうので、鉄の檻のなかで生活しながら、苦痛に耐えるしかない、というような含意を導いてしまう。 ここで私たちは、「鉄の檻」を超えるような自由社会の構想力がないと、つまらない結論、つまらないウェーバー解釈に陥ってしまうでしょう。  いろいろ興味深い論点が凝縮されている本書ですが、二重予定説との比較で、中世におけるキリスト教世界には、「煉獄」があったことの意義について、以下に考えてみたいと思います (142-) 。  中世のキリスト教は、天国と地獄のあいだに「煉獄」という中間地点を作りました。人間には、完全な善人と、不完全な善人と、不完全な悪人と、完全な悪人がいる。このうち、完全な善人は天国へ、完全な悪人は地獄へ、そして不完全な善人と悪人はともに煉獄に行くとされます。煉獄は、試練の場になるわけですね。  ダンテの『神曲』では、煉獄が描かれます。これに対し...

■「不良」とは、映画館でナンパする人のこと

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    遠藤薫編『日本近代における〈国家意識〉形成の諸問題とアジア』勁草書房   遠藤薫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   夏目漱石はロンドン留学の二年間、不愉快であわれな生活を送ったといわれますが、そのときの「神経衰弱」と「狂人」的な感覚が、のちの文学作品の糧になっているのですね。人生において、こうした危機的な時期がないと、人はなかなか独創的な作品を生み出せないのかもしれません。  漱石のロンドン滞在で、もう一つ注目すべきは、彼がカール・ピアソンの『科学の文法』第二版を読んだということですね。実際に漱石は、さまざまな書き込みをしている。文学論よりも、この科学論のほうが、夏目漱石のいう独自の「個人主義」の思想につながっているとみることができます。これは興味深い論点です。  本書の第九章では、日本における「不良」文化の形成について、興味深い史実が掘り起こされています。 明治 44 年( 1891 年)、浅草で無声映画が公開されます。その当時、映画館は、不良がたむろするうす暗い空間として評判になったのですね。「不良」とは、当時、映画館でナンパする人のことであると。上映中に、女性の手を握る「にぎり」。女性に名刺などを渡す「ぶつ込み」。上映後に女性の後を付け回す「追かけ」。こうした行為は、不良少年のあいだで流行りました。無声映画の原作の名前を採って、「ジゴマごっこ」と呼ばれたのですね。結局、ジゴマは放映禁止になってしまうわけですが、これが日本で最初の不良文化の一つになったと。