■自分はこの動物として生まれたかもしれないという想像力
スー・ドナルドソン/ウィル・キムリッカ『人と動物の政治共同体』青木人志/成廣孝訳、向学社
青木人志さま、成廣孝さま、ご恵存賜りありがとうございました。
ペットとして飼われている動物たちの権利は、これまで動物の「福祉」という観点から、あるいは「生態系の健全性」という観点(すなわち「生態系中心主義」)から、擁護されてきました。フーコー的なミクロ権力の作用に注目すると、動物たちもまた、人間たちと同様に、政府に飼いならされる(あるいは主人に家畜として飼われる)ことから逃れて、存在の野性を取り戻さなければならない、ということになるのでしょう。
しかし動物の権利は、むしろ市民社会論の枠組みで擁護したほうがよい、というのですね。
人間は「シティズンシップ」をもっている。そして人間は、このシティズンシップをつかって、子供たちや障害者などの弱者の声を代弁することができます。同様に人間は、シティズンシップをつかって、動物たちの声を代弁できるというわけですね。
この「代弁機能」を、どのように理論化することがふさわしいのか。なぜ人間は、動物のためにその権利を代理闘争できるのか。これはシティズンシップ論の新たな課題です。
障害者の権利を健常者たちが代理闘争する場合、その根拠は、自分もまた障害を持って生まれた可能性があるということ、けれどもその場合でも、同じ人間としてよく生きることを保障してもらいたいと思うこと、そうした論理が成り立ちます。
しかし動物の場合、自分もまたこのような動物として生まれたかもしれない、と想像することは、なかなか難しいです。そのように想像できる動物もいるかもしれないけれども、保護したい動物たちすべてに対して、私たちは「もしかしたらこのような動物に生まれたかもしれない」という感覚をもちうる、あるいはもつべきなのでしょうか。
ここで問われているのは、動物への共感でしょうか。存在を承認する際の根拠として、共感以外の回路があるのかどうか。興味深い問題です。