■芸術至上主義の見地 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 6月 11, 2017 森貞彦『「菊と刀」から見渡せば』風詠社 森貞彦さま、ご恵存賜りありがとうございました。 レルモントフ:なぜ踊りたいのかね? ペイジ: なぜ生きたいの? レルモントフ:実のところ分からないが、とにかく生きなければならないんだ。 ペイジ: 私の答えも同じよ。 レルモントフは、彼女をバレエ団に入団させることにした。 映画『赤い靴』より。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
■「天」と「神」の違いについて 6月 23, 2017 橋爪大三郎/大澤真幸『げんきな日本論』講談社現代新書 橋爪大三郎さま、大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。 天を祀るのと、神を祀るのとは、どう違うのか。 天を祀る場合ですが、天は「祖先」ではありません。 しかし神を祀る場合、その神が「氏神」であれば、祀る人の祖先が祀られる神になる。それは自然な紐帯であり、絶たれることがありません。 天皇家も、アマテラスとか、その系統の「神」を祀っていて、それを祖先だとみなしている。そうだとすると、神との関係は切れていないことになる。神との関係が切れていないとすれば、その正当性を否定する革命はきわめて起こりにくいですね。 ではなぜ、日本に「天」がないのでしょう。 もともとあった血縁関係を超えて、大きな国家・帝国を作るためには、血縁関係とは無関係の原理が必要です。 それが「天」です。天との関係で、皇帝は皇帝になるわけです。皇帝は、由緒正しい家柄だから皇帝になれたのではなく、「天命」によって皇帝になる。 ところが日本の場合は、 カミは、どこかの氏族と特別な関係をもち続ける。オオキミはやがて「天皇」と呼ばれるようになりますが、「天」との関係は希薄です。オオキミは、ランクの高い氏族であって、血縁的な共同性の原理を脱していないのですね。 続きを読む
■自殺願望が生きる願望に反転する 10月 27, 2023 代真理子『 9 月 1 日の君へ 明日を迎えるためのメッセージ』教育評論社 代真理子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 初の著作の刊行、おめでとうございます ! 一読して、これはすばらしい本だなと思いました。他の本と熱量が違うと思います。 9 月 1 日は、新学期の初日である地域が多く、その日に自殺する生徒が、年間で最も多くなる日でもあるのですね。でも、自殺してはいけない。自殺したいと思う悩みに、どうやって寄り添うのか。これが本書のテーマです。代さんと、それから、本書に寄稿されたり対談されたりした大人たちが、真剣に応えています。どれも珠玉の文章です。 本書の寄稿者と対談者たちは、自殺についての専門家ではありません。でも一度は自殺したいと思って、人生の困難な時期を経験したのだと思います。みなさん、どうして自殺しなかったのか。いろいろな道のりがあるのでしょうけれども、いずれにせよ、いま活躍している多くの魅力的な大人たちは、一度、心の中で自殺しているのではないか、と改めて思いました。 自分はすでに死んでいる、すでに終わっている。そういう深刻な経験をして、そこからエネルギッシュな活動に向かう人たちがいます。とても魅力的な人たちです。ではそうした魅力的な人たちは、どうやって「自殺したい」というネガティブなエネルギーを、ポジティブなものに転換していったのでしょう。そのような経験を、本書はさまざまなに伝えています。 そして何よりも、代真理子さんが、死にたいという思いを、小学 3-4 年生のときに、すでに持っていらしたのですね。本書の「はじめに」を読んで、びっくりしました。 また本書の「最後に」で、代真理子さんのこれまでの人生の経験が語られています。小学生のときに、中学受験をして、中高一貫校に入学したのですね。しかし、中学二年生のときに自主退学して、公立の中学校に通うことにしたのですね。それから、高校受験、大学受験・・・そして、その後のエピソードは、衝撃的なことがたくさん。とてもつらい経験を何度もされて、それでいまの代真理子さんの活動があるのですね。 代真理子さんの「未来に残したい授業」は、 YouTube で、広告収入をまったく入れずに、無料で公開している授業番組です。 https://www 続きを読む
■ウェーバーvs.ラッファール 「プロ倫」をめぐる当時の論争 11月 02, 2023 竹林史郎『歴史学派とドイツ社会学の起源』田村信一 / 山田正範訳、ミネルヴァ書房 田村信一さま、山田正範さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 竹林史郎先生がドイツ語で刊行された本を、日本語に翻訳されたのですね。 この本の副題は、「学問史におけるヴェーバー資本主義論」です。社会学史研究として、決定的といえる内容であり、一つの到達点だと思います。ウェーバーと同時代の学問がどのように展開され、ウェーバーがその中でどのような貢献をしたのかについて、徹底的に調べてまとめています。 本書の第八章で、「ウェーバー・テーゼ」の妥当性が検証されています。当時、ラッファールがウェーバーのプロ倫を批判して、それに対してウェーバーが応答し、ラッファールがさらに批判する、という論争が展開しました。私たちはこの論争から、何を学ぶことができるでしょうか。 いろいろな論点がありますが、結論から言えば、私が拙著『解読ウェーバー』で提起したように、ウェーバーの説明においては、「プロテスタンティズムの倫理」と、「プロテスタンティズムの経済倫理」のあいだに、概念上の断絶がある。この点を、ラッファールは理解していないと思いました。 ラッファールは、イングランドにおいて、敬虔派的少数派の特徴的な職業倫理が、資本主義の発展に対して与えた影響は、それほど大きなものではないと考えます。資本主義の精神を担ったのは、リベルタン [ 自由思想派 ] 、合理主義者、宗教的無関心層、啓蒙主義、などの広範な担い手であった、と考えます。しかし、「プロテスタンティズムの経済倫理」というのは、すでにカルヴィニズムの倫理を超えて、世俗的な勤労倫理になっていましたし、ウェーバーはそのようなものとして理念化しています。歴史的に問うべきは、カルヴィニズムの担い手ではなく、バクスターの経済倫理を受け入れた読者層であり、それが本当に、資本主義の精神の担い手の多数派なのかどうか、ということでしょう。 実際には、バクスターが説くような、プロテスタンティズムの経済倫理(禁欲に基づく労働エートス)の担い手だけでなく、禁欲的ではない人たちも、資本主義の精神の担い手になったかもしれませんね。 ただしウェーバーの歴史理論は、このような可能性を否定しているわけではなく、ルターからカルヴァ 続きを読む