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■自由とは子どもの視点を持つこと

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濱真一郎『バーリンとロマン主義』成文堂 濱真一郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。  ゲルツェンは大著『向こう岸から』で、次のように問いました。ある世代は、将来の世代のために犠牲になってよいのか、と。もし歴史が計画をもつのであれば、あるいは台本をもつのであれば、それは退屈なものになってしまう。それに適わないすべての関心は、ばかげているように見えてくる。しかしそのような超越的な観点から私たちの生活や人生に意味を与えるということは、幻想であると。  「子供は成長するから、大人になることが子供の目的だと、私たちは考える。もしも私たちが進歩の目的だけを考えるなら、すべての生の目的は死ということになってしまう。」  自由を擁護するためのこの論理は、つまり、私たちは子どもで、まだ成熟していないという自覚をもつということ、そして子供のうちに遊んでおく、それがどの時代にも必要だ、ということですね。 私はこの論点を深めることができると思います。ある意味で、自由とは、子どもの視点に特権的な意義を与えることである。子どもの意見表明を、社会において特別な仕方で組み込み、確保することである。そういう構成的な制度を、自由主義の社会は求めるべきで、これはいろいろな場面で新しいアイディアを与えるように思います。

■保守とリベラルの対立は、中国vs北欧諸国で考える

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加藤雅則『組織は変われるか』英知出版 加藤雅則さま、ご恵存賜り、ありがとうこざいました。  本書の 47 頁で、エリン・メイヤーの「異文化適応のリーダーシップ」の図が紹介されています。「トップダウン型 vs 合意型」と「ヒエラルキー重視 vs 平等主義」の二つ軸で各国の組織文化を位置づけると、中国は「トップダウン - ヒエラルキー」型で、日本は「合意 - ヒエラルキー」型になる。これに対して北欧諸国は「合意 - 平等主義」型で、アメリカやイギリスは、「トップダウンと合意の中間」と「平等主義」を組み合わせたタイプになるというわけですね。  この図式で「保守」と「リベラル」を考えると、保守というのは「中国」で、「リベラル」とは北欧諸国になる。日本はその二つの要素をもち、アメリカもまた、別の意味で二つの要素をもっている、ということになるでしょうか。  日本にとってリベラルとは、「ヒエラルキー」を排して「平等主義」に近づくこと、組織をフラットにしていくこととみなされています。でも、それはかなりラディカルな提案になるので、現実的なリベラルは、日本の文脈では、健全なヒエラルキーについての一定の基準を提案しなければならないかもしれません。  いずれにせよ、この図は、単純明快さとインパクトを備えています。保守とリベラルという対立図式は、中国と北欧諸国の対比で考える、という発想ですね。

■日本人は12歳の少年

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井上達夫/香山リカ『憲法の裏側』ぷねうま舎 井上達夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 連合国軍最高司令官のマッカーサーが解任されたとき、彼がある公聴会で語った日本人観は、有名です。アメリカ人は成熟した 45 歳の熟年であるのに対して、日本人は 12 歳の少年である、と。  このマッカーサーの発言は、傲慢な軍人のたんなるたわごとであり、一蹴してかまわないでしょう。けれども日本人の政治的な成熟度についていえば、現代においてもまだ成熟には程遠い。その一例が、左派の人たちの憲法に対する態度(護憲のみで改正論議や国民投票そのものを忌避する態度)である、というわけですね。  カトリックの国、アイルランドでも、憲法で離婚が認められるようになったのは、 1995 年の国民投票においてであり、それまでは認められていなかったわけですから、憲法を変えるという政治の手続きは、保守的な文化風土の下では、かなり難しいのでしょう。  それでもやはり、日本で自衛隊を違憲とするのか合憲とするのかについての憲法解釈、ないし憲法そのものについては、国民投票で明確にしたほうがいいというのですね。これは賛成です。  日米安全保障についていえば、アメリカは海外における世界戦略の拠点たる日本を、ほぼただで日本に提供してもらってきた。在日米軍駐留費の 75% は日本負担である。こうしたアメリカの態度に対して、日本は日米安保の現状を見直したいと迫るべきである。それが大人の交渉術である、というわけですね。けれども憲法九条があるせいで、日本政府はアメリカと対等に渡り合うことができない、というのが戦後日本の悲しい現実政治であったと。  ところが安倍政権になって、解釈改憲を通じて、これまでのような「九条」をカードとする政治のやり方を変えた。しかしそれは、アメリカに対して日本の主体性を示すというよりも、アメリカがはじめる軍事行動に自衛隊を(地域限定を外して)参加させるというもので、軍事的な対米従属構造を強化するものになっている。これはおかしい、むしろ日本はアメリカと対等な外交関係を築くべきだ、ということですね。  この日米安全保障に関する安倍政権の戦術は、しかし、解釈改憲によって軍事的な交渉の対等性を手にしつつも、それをいったんわきに置いてアメリカに協力する

■政治に満足する人たちが増えると・・・

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西田亮介『なぜ政治はわかりにくいのか』春秋社 西田亮介さま、ご恵存賜りありがとうございました。  本書で紹介されている、内閣府の「国の政策への民意の反映程度」と、同じく内閣府の「社会全体の満足度」をみると、平成 25 年( 2013 年)頃から、民意は国の政策に「反映されている」という人が増えて、「満足している」人も増えているのですね。平成 25 年には、「満足している」人が 53.4% で、「満足していない」人が 46.1% になり、反転しています。  こうしたデータで見るかぎり、安倍政権は政治的に成功していると言えるでしょう。安倍政権に対する評価を背景にして、いま、野党のリベラルがたたかれている。そういう現実があります。  満足している人たちは、政治に対してどんなモノを言うのか。満足している人々は、自分のいまの生活を、政治的にも「それでいいのだよ」と正当化してもらいたい、そういう表現願望、あるいは自己承認願望を政治的に対して投げるように思うかもしれません。

■丸山眞男よりも山本七平のほうが日本の全体主義の本質を捉えていた

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橋爪大三郎『丸山眞男の憂鬱』講談社メチエ 橋爪大三郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。  丸山眞男と山本七平を比較すると、日本の全体主義の本質的な問題性を捉えたのは、山本であり、丸山は論点を逸している、というのですね。これは政治思想史上の重要なテーマに切り込んだ、とても興味深い考察だと思います。  問題は、山崎闇斎の闇斎派をどう位置づけるかですね。丸山は、学園紛争の嵐が吹き荒れたあとに、山崎闇斎について長文の論稿を書いているけれども、それはこの学派の独自性や本質を理解するものではないし、軽視しているようにみえる。  闇斎派は、日本に朱子学を導入します。しかしその際、山崎とこの学派の主流派は、朱子学の中の「湯武放伐論」を退けました。これはつまり、革命を否定することを意味します。しかし山崎闇斎は、この議論を退けるにあたって、朱子学を部分的に変更して輸入したというのではなく、日本の文脈においてこそ朱子学の本来の思想が実現できると考えて、このような解釈こそが朱子学の正統な解釈である、と論じるわけですね。  そしてこの闇斎派の朱子学の観点から、天皇を中心とする国体を正当化する思想が生まれてくる。これこそ、日本の全体主義の本質にある思想だという。全体主義批判で数々の業績を残した丸山眞男が、この山崎闇斎の思想を正当に位置づけられなかったというのは、いったいどういうことなのか。そこに何か重要な思想的意義があると思いました。

■歩けば思索できる、立ち止まれば思考も止まる

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レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』東辻賢治郎訳、左右社 東辻賢治郎さま、左右社さま、ご恵存賜りありがとうございました。  「歩く」ことをテーマとして思想史を語るというのは、興味深い取り組みですね。例えば環境運動団体のアメリカのシエラ・クラブは、ジョン・ミューアという旅する思想家の運動からはじまっている。  そうした旅の源流をたどると、巡礼の旅によって聖なるものに近づく、というテーマにいきあたります。   18 世紀になると、自然は、美的に称えられる対象となりました。啓蒙主義や科学主義の興隆とともに、「自然」の価値が再発見されるのですが、やがてその自然は、 19 世紀になると、中産階級の人たちにとっての「宗教」になる。  ワーズ・ワースは、イギリスの湖水地方に生まれ育ち、その土地の風景や自然をたたえて詩に残しました。するとその詩に影響されて、イギリスの中産階級のひとたちは、まるでエルサレムを巡礼するかのように、ウェストモアランドを旅するようになる。  自然の中を歩くことが、「善き行ない」であるという意味を帯びてくるわけです。テーマ・パーク化されたショッピング・モールを歩くのではなく、自然の中を歩く。それが公共性を帯びた価値を形成していくということですね。  かつてルソーは『告白』のなかで、「わたくしが集中できるのは歩いているときだけだ。立ち止まると思考は止まる」と書きました。歩いて考えることは、このように自然に帰る思想の精神史を形成しているというのは、じつに興味深いです。

■移民の受け入れは帰結で考える

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ジョセフ・カレンズ『不法移民はいつ〈不法〉でなくなるのか』横濱竜也訳、白水社 横濱竜也さま、ご恵存賜りありがとうございました。  これは翻訳の分量よりも、横濱さんの解説の方が長く、しかも内容が充実しているので、横濱さんの単著といってもいいくらいですね。  このテーマをめぐる思想的な問題と現実の政策について、体系的に書かれています。全体が見えてきました。  不法移民を受け入れると必ず差別や排除が生じる。だから受け入れるべきではない、という論理はおかしい。けれども受け入れるということは、必然的に生じるであろう差別や排除の問題に対処しなければならないことを意味します。生じうる差別と、その後の差別しない対応(実践知の蓄積)と国家間の秩序を比較して、後者のほうが帰結的に望ましいという、政治的判断をしなければなりませんね。  移民の受け入れについて、ナショナリズムに対抗する平等論や関係的平等主義は、しかし、受け入れをめぐって一つの共通見解を導くことができるわけではありません。ドゥウォーキンにせよアンダーソンにせよ、関係的な平等の範囲をめぐっては、あまり理論的な考察がないとの印象をうけました。「運」や「関係」は、やはり文脈の中ではじめて具体的にイメージできるものであり、国際関係のなかで「運」や「関係」の問題を考えると、やはり「どうしてこの国に生まれたのだろう」という具合に、国を単位として「運」を意味づけてしまいますね。そういうリアリティがあります。これを乗り越えるためには、文脈についての豊かな想像力が必要だと思いました。

■新自由主義がもたらした統治術

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正村俊之編『ガバナンスとリスクの社会理論』勁草書房 正村俊之さま、執筆者の皆さま、ご恵存賜りありがとうございました。  新自由主義による規制緩和によって、多くの行政サービスは民間の業者に委託されるようになりました。これはコーポレート・ガハナンスの進化が可能にした統治の形態ですね。行政セクターは、民間セクターが自律的に運営できているかどうかについて、チェックできるシステムを整備していきました。これには「内部コントロール」と「外部コントロール」があるわけですが、いずれにおいても「リスク管理術」と「モニタリング術」と「情報技術」の進化がみられた。これらの手段によって、ガバナンスの技術は、公的領域と私的領域の両方で相互浸透可能な仕方で発展していくことができた。  行政側は、それまでの業務アウトソーシングする一方で、そのリスクを管理するようになった。こうした「リスク管理技術」こそ、実は新自由主義がもたらした新しいガバナンスであったのですね。新自由主義とは、実際には政府を「小さな政府」にしたというよりも「新しいガバナンス形態」をもたらした、というのが正しい。そしてそれがある程度まで成功したわけですね。今日、新自由主義に反対するかどうかの試金石は、例えば体育館や図書館の運営のアウトソーシングに反対するかどうか、という点にあるかもしれませんね。

■功利主義の限界から自由を擁護する

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若松良樹編『功利主義の逆襲』ナカニシヤ出版 若松良樹さま、執筆者のみなさま、ご恵存賜りありがとうございました。  功利主義のコアには、一人一人の効用をすべて平等に扱うように、という要請がありますね。この要請は、功利主義的に擁護できるのでしょうか。  もしできないとすれば、功利主義はすでに「ある種の正義(公平性)を基底的に想定する」のであり、すでに正義論を前提とした議論ではないでしょうか。  いや、そうではなく、「一人ひとりの効用をすべて平等に扱う」ことが望ましいかどうかも、なんらかの功利主義的な原理によって決まるというのであれば、この正義原理を外した功利主義の規範理論もありうる、ということですよね。  さらに言えば、一人一人の効用をどのように計測するかについては、いろいろな考え方がある。具体的な政策に即して効用を計測する場合、そこにはさまざまな前提条件が持ち込まれるでしょう。その際にどういう前提を持ち込むのかということが争われるわけであり、功利主義以外の原理を要請することが多くなるのではないでしょうか。  若松論文が指摘するように、結局、功利主義的に考えても、帰結が不確実で、さらに小以来の自分の選好も不確実だという場合には、自由を優先する、ということになるでしょう。これはつまり、功利主義の限界から自由を擁護する議論であり、功利主義の逆襲ではないように思いました。