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■ウェーバーは資本主義の衰退を予測していた

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田村信一『ドイツ歴史学派の研究』日本経済評論社 田村信一さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  拙著『解読ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』で、本書を参照させていただきました。ゾンバルトとウェーバーの関係について、とても興味深く拝読しました。  ゾンバルトは『近代資本主義』で、興味深い考察をしています。この本の初版では、ゾンバルトは重商主義に対して否定的な評価をしていました。しかし第二版では、重商主義は「進歩しつつある精神の担い手の表現」であるという具合に、高く評価しているのですね。  またゾンバルトは、 19 世紀以前のヨーロッパの文化はすべて、物質文化だけでなく精神文化もまた、森林から出現したと指摘しています。しかしゾンバルトが生きた当時、 19 世紀から 20 世紀にかけては、ヨーロッパ人たちは森林資源の使いすぎて、例えばイングランドでは、中世に 69 か所あった森林が、 19 世紀には 4 か所に減ってしまったというのですね。 そこでイギリスは、木材を輸入しなければならず、あるいはエネルギー資源を石炭へと代替していくわけですが、この時点でイギリスは、文明の限界を突破したのであると、ゾンバルトは考えるのですね。西欧社会は、科学技術と機械技術によって、「高度資本主義」の段階へと移行することができたのであると。言い換えれば、環境問題の技術的克服が、文明の発展を導いたのであるというのですね。  ウェーバーはしかし、これと反対の見解を抱いていました。ウェーバーは、石油資源もやがて枯渇するだろうと悲観的に予測して、資本主義の衰退を念頭において、「プロ倫」を書きました。私たちに問われているのは、現在の環境問題、とりわけ気候問題を技術的に克服することができるのか、その克服によって、資本主義のさらなる発展を期待してよいのか、ということでしょう。まさにウェーバー vs ゾンバルトの問題を、私たちは継承しているわけですね。

■地域通貨とプライバシー

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西部忠編『地域通貨によるコミュニティ・ドック』専修大学出版局 西部忠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 本書は編著ですが、とはいえ西部先生はほとんどの章の執筆にかかわっていますから、これはもう単著に近い成果ですね。またこれまでの地域通貨研究の集大成でもあると思います。成果の刊行を心よりお喜び申し上げます。  地域通貨が、まずコミュニティを再生するという関心から生まれ、それぞれのコミュニティにおいて、地域通貨を発行したいという市民的な担い手によって自発的に運営されるという場合に、その運営を支援するためには、コミュニティが抱えている諸問題を診断して、ふさわしいやり方で地域通貨の発行を考えなければならない、というわけですね。  地域通貨は法貨(日本の円)と比較すると、流通範囲に制限がありますが、そこに割引券のようなプレミアムをつけることができる。あるいは一定の地域でしか使えないということで、それを受け取る際の心理に違いがあるでしょう。 例えば、有償のボランティアをした場合に、その対価を日本円でもらうよりも、地域通貨でもらったほうが、地域に貢献したことに対する対価として、喜んでもらえる可能性が高いかもしれません。けれども若者になるにしたがって、そのようなコミュニティに対するプレミアム感は減っていく、というわけですね。  別の問題で、地域通貨を流通させる際に、その通貨(紙幣)の裏に日付や名前を書いてもらうと、地域通貨がどのように流通したのかが見えてきます。しかし地域通貨に名前を書くというのは、プライバシーの問題をはらみます。抵抗が生まれるでしょう。 2005 年 4 月より、個人情報保護法が施行されましたが、その後はとくに、この記入式の地域通貨は、なかなか流通しなくなるというというか、無記入で流通するケースが多くなってきた、というのですね。地域共同体の協働価値とプライバシーの権利のいずれを優先するのか、という問題が生じたのであると。  流通のネットワークについての分析は、すぐれた成果が得られていると思いました。流通のいわばハブになる人と周辺的な人のあいだに、一定の分布の関係が生まれていることが分かります。

■なにが基本財か?って考えてみると難しい

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井上彰編『ロールズを読む』ナカニシヤ出版 佐藤方宣さま、若松良樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  認知心理学では、「よく定義された問題 (well-defined problem) 」と「うまく定義されていない問題 (ill-defined problem) 」を分けるのですね。例えば、どんな人生計画を立てるべきかという問題は、「うまく定義されていない問題」です。目標も、選択肢も、また各選択肢を選択した場合に生ずる事態についての見通しも、不明確だからです。  これに対して「私たちは社会全体としてどんな正義原理を採用すべきであるか」という問題は、もう少しうまく定義された問題である、ということになるでしょう。  ここで考えてみたいのは、私たちの社会における「基本財」というものが、なぜ特定できないのかについてです。個々の人間にとって、自身の人生計画がどのようなものであるべきなのかは、難しい問題です。これに対して、個々の人間にとって何が基本財であるのかは、分かるということになるでしょうか。 さまざまな人たちが集まって、社会全体で何が「基本財」であるのかを決める場合、あまりにも情報がありすぎて、合意にいたらないかもしれません。  また、個々の人間にとっても、自分にとってどんな財が基本的なものとして最低限必要か、複雑すぎて分からないのではないでしょうか。 加えて言えば、はたして基本財は、貨幣という非特定的な価値をもったもので分配されるべきかどうか。この問題に答えることも難しいです。そうだとすれば、基本財の分配問題は、「うまく定義されていない問題」だということになります。  この最後の点について、現実的に説得力のある説明は、基本財については、特定のモノやサービスで支給ないし分配するよりも、貨幣で支給したほうが、コストが安い(それだけ貨幣経済がすでに発達している)というものでしょう。しかしこの発達した貨幣経済を前提とした場合に、基本財を貨幣で支給することの意味は、たんに「コストが安い」ということに還元されるのかどうか。 貨幣によって基本財を支給すると、各人はその貨幣を通じて、「選択の判断をその都度変更できる(学習しうる)」ことになります。するとこの「選択の変更可能性」というメリットも、基本財の一部になるので

■名誉を棄損したといえる基準についての哲学

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J・ファインバーグ『倫理学と法月の架橋 ファインバーグ論文選』嶋津格/飯田亘之編集・監訳、東信堂 野崎亜紀子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 ファインバーグは、「無比較的正義」と「要比較的正義」を区別しています。独自の議論ですね。この区別から、いろいろな考察が展開されています。例えば、 100 点満点のテストで 60 点をとるというのは、無比較的な判断に基づくものです。 60 点というのは、他人と比較した点数ではなく、そのテストで本人が示した絶対的な値だからです。これに対して、 1 位を決める 100 メートル走に参加した場合、この順位は、他人と比較した結果ですから、「要比較的」な判断ということになります。  この「無比較的」と「要比較的」の違いは、「他人のためにどれだけ残されているか」によって決まる、というわけですね。しかしこれは「どれだけ」という程度問題ですから、「無」と「要」のあいだには、どれだけ比較しているのかという「程度の問題」が、グラデーションをなして存在しているでしょう。  考えてみると、 100 点満点のテストをするということ自体、すでにテストを受ける人たちが、「他人との比較に晒される」という状態を生み出すことですから、比較促進的な効果を持っています。この点を考慮に入れると、たんに「無比較的」と「要比較的」を区別するのではなく、「比較促進的」と「比較非促進的」という区別を考慮に入れる必要があるのではないか、と思いました。  しかしファインバーグの論点は、 100 点満点のテストではなく、広く社会一般に行われている人間の行為に対して、無比較的な仕方で、正当な評価をするという「判断的正義」というものがある、ということですね。  例えば、ある大統領が卑小な人間であるというのはまったく正しいことではない、という判断は、「無比較的」な判断の正義に基づいている、というわけですね。しかしこの場合、すでに大統領制というシステムを採用した時点で、大統領というポストは、他人のために残されているものではないので、その点ではすでに「要比較的」な判断をしているわけですよね。犯罪に対する罪の重さを公正に判断するという場合にも、すでに何を犯罪とみなすのかについての一般的なルールを採用する時点で、要比較的になっていますよね

■リバタリアン・パターナリズムは国の統治力を弱める

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田上孝一編『支配の政治理論』社会評論社 田上孝一さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。 これはいい本ですね。「支配」というテーマで社会思想史をひろく論じ、さらに個別の文脈で、新しい現代的な知見を扱っています。 さまざまな分野の気鋭の若手の執筆者たちをコーディネートしている点もすばらしいです。  例えば、 J.S. ミル。ミルは、現代のリバタリアン・パターナリズムと比べるなら、リバタリアンに近い位置にいるのですね。温情的な仕方で、政府が企業に対して、従業員に年金の積み立てを促すような仕組みがあります。おそらくミルは、オプト・アウト(離脱するという選択肢)があるとしても、こうした仕組みには反対するでしょう。 では、 J.S. ミルと C. サンスティーンを比較した場合、どちらが功利主義の原理に忠実なのでしょうか。ミルのいう「危害原理」を超えた政府介入が、功利主義的な観点から擁護できるかどうか、という問題は本質的であるように思いました。  サンスティーンは、危害原理を超える必要性を論じています。たとえば飲酒規制は、追加税、飲酒できるお店のゾーニング(領域制限)、飲酒量の制限、などの方法を用いて、やわらかい仕方で人々の行動を規制することができます。規制したほうがかえって本人の望んだ理想の生活を達成できるでしょう。ミル的に言えば、飲酒に関する自律的な判断力を養う、ということになるでしょう。このような場合、功利主義的な観点から、温情的な規制をしてかまわないのかどうか。  派生的な問題もあります。こうした制度を導入すると、かえって専門家支配を強めてしまうのではないか、という点です。人々は、市民として政治に参加する(自分たちで議論して決める)ことを、疎外されてしまうかもしれません。するとかえって一国の統治力は弱まるかもしれません。 どんな制度を採用するのであれ、その制度をだれがどのような仕方で導入するのかは、支配の問題として検討しなければならない。まさに「支配」の理論が必要ですね。

■功利主義は「できるだけ多くの人間を産み育てよ」と要請するか

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松元雅和/井上彰編『人口問題の正義論』世界思想社 松元雅和さま、井上彰さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。  「最大多数の最大幸福」という功利主義の倫理命題は、具体的にどんな意味で解釈できるのか。例えばこの命題は、人間には「できるだけ多くの人間を産み育てる義務」がある、という倫理的要請を含んでいるのかどうか。あるいは、「いま生きている人間に限定した上で、私たちはいま生きている人たちの幸福の「量」を最大にする義務がある」、という倫理的要請になるのだろうか。これらの二つの要請を二つとも引き受ける場合には、「できるだけ多くの人間を産み育て、しかもできるだけ幸福にしてあげる」という倫理的要請を含むことになるだろう。いったい功利主義の命題は、どのように解釈することが望ましいのだろうか。  もちろん、パーフィットか指摘するような、「人格の非同一性」という問題も関係してきます。人間を幸福に育てるといっても、一定の幸福な人格像を想定して育てることには、リスクがあるでしょう。その人は人格を変化させるので、幸福ではなくなってしまうかもしれないからです。こうしたリスクを回避して、人格というものがかりに変化しても幸福を最大化できるような人間の育て方があるという、そういう想定をする必要があるでしょうか。  しかもその上で、人口論的には、地球環境の問題も考慮して、この地球上に、最低限の文化的水準を維持しながら暮らすことのできる人間の限界数を計算しなければならないということになるでしょうか。しかしこの数がどの程度なのか、意見は分かれるでしょう。  一方には、悪化した環境のなかで、生存ギリギリで暮らす最大多数の状態をよしとする発想があります。他方には、よい環境のなかで、誰も功利主義的な観点からの「産む義務」や「育てる義務」というものを負わず、いま生きている人たちのあいだで、最もすぐれた文化的水準を享受するという世界の状態をよしとする発想があります。前者は「最大多数の生存ギリギリ状態」であり、後者は「最大幸福(文化)水準の少数享受の状態」となるでしょうか。  さていま、人類はかりに「最大幸福(文化)水準の少数享受の状態」を達成できたとしましょう。この状態から、一人当たりの幸福(文化)水準を少し低くして、追加で 10 億人の人口

■「ホビー(趣味)」は「テイスト(嗜好)」よりもすぐれている

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神野由紀/辻泉/飯田豊『趣味とジェンダー 〈手作り〉と〈自作〉の近代』青弓社 神野由紀さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  雑誌『ジュニアそれいゆ』、いいですね !  本書にはこの雑誌からの、いろいろな写真が掲載されています。「ジュニアそれいゆ」の世界のなかに引き込まれてしまいます。いったいこの感覚は何でしょう。少女が生み出す独特の趣味世界ですね。  明治時代の少年たちは、「文学」に関心を寄せたけれども、大正時代になると、国策として近代化・産業化を推進すること、優秀な技術者(テクノクラート)を養成することが掲げられ、この規範が子どもたちの趣味にも浸透していきます。また、近代的な男女分業が成立して、女性は主婦として家事を担い、それ以外の時間は、家庭をより美しく快適にするための手芸をすることが、推奨されはじめます。「良妻賢母」の理想ですね。 大正後期になると、男性(少年)の趣味は「工作」、そして女性(少女)の趣味は、「手芸」となっていく。  しかしこうした社会の機能的な目的に合わせて趣味を形成する時代はやがて去り、趣味というのは、「社会に役立たないもの」へと変化していく。もちろん、何かを作るという「クラフツマン」の精神は、いつの時代にも、人間にとって一つの本質的な営みであったでしょう。「手作り」は、それ自体として、人間に何らかの生きがいを与え続けてきたのでしょう。では現在、「手作り」の趣味がもつ意義とは何でしょうか。本書では、それぞれの立場からいろいろな議論が展開されています。  いずれにせよ、手作りの特徴は、たんに「テイスト」を磨くという「判断力」中心の消費文化ではなく、生産文化の一つでもあるということですね。「ホビー」は「テイスト」とは違うのであると。何かを生み出していることの快楽と、何かを享受していることの快楽のあいだに、大きな違いがある。この点から消費文化を見直す価値があると思いました。

■「自分を信頼しなさい」――エマソン哲学入門

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斎藤直子/木村博美『「自分を変える」ということ』幻冬舎 斎藤直子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  本書の表紙に「アメリカの偉大なる哲学者エマソンからの伝言」とあります。エマソンから何を学ぶことができるのか。対談形式の哲学入門書になっていますね。  エマソンは、アメリカのニューイングランドで、代々続く牧師の家に生まれました。ハーバード大学の神学部の大学院を出て、最初は牧師になります。ところが因習にとらわれた教会に満足できません。 29 歳のときに教会を批判して、エマソン家の伝統と教会をいずれも捨ててしまう。これはラディカルな反抗であり、抵抗ですね。そこから「自分を信頼する」という哲学を構築していくことになる。  そして斎藤直子先生も、実は似たような経験をされていたのですね。 29 歳で会社を辞めて、大学院に進学するという選択をされた。そのときにすでに、エマソンに励まされていたのだと。「自分の考えを信じて自分に正直に生きなさい」というエマソンの思想に背中を押されて、ご研究を進めてきた。「拠りどころとするのは自分しかいない」という、エマソンの言葉を励みにがんばったというのですね。 振り返ると、そのころに私は、斎藤先生にお会いしました。東大でのテイラー研究会や、ニューヨークでお会いしたことを思い出します。  本書は、斎藤直子先生の人生経験から、エマソンにアプローチしています。このような仕方でエマソンの思想が読者に届けられることを、とてもうれしく思います。

■反グローバリズムとショッピング・モール

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山田真茂留編『グローバル現代社会論』文眞堂 富永京子さま、畑山要介さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。  反グローバル運動に参加して、地球のどこかで自治キャンプをする場合に問題になるのが、マイノリティへの対応ですね。  例えばトイレです。性的マイノリティには、どのように配慮すればいいのか。男性用、女性用、その他〇〇用、という具合に細分化していくのか。それとも性別そのものを取っ払ってユニセックスにしてしまうのか。  あるいは禁煙ゾーンについて。これは「喫煙ゾーン」にすべきなのか、それとも「禁煙者ゾーン」にすべきなのか(禁煙者たちを囲い込むべきなのか)。  他にも、ベジタリアン・メニューを用意すべきか。ごみの分別をすべきか、等々の問題が発生します。  グローバリズムに反対するなら、環境に配慮した行動を実践する必要がある。しかしそのように発想すると、反グローバルなアナキストたちは、実際には抵抗するでしょうね。反グローバリズムの実践は、あらゆるルールを撤廃するアナキズムの要求である、と主張するでしょうね。しんし反グローバリズムは、環境団体が要求するような、もっと市民的なコントロールを求める運動でもあります。運動に内在する矛盾が現れます。  一方で、 2000 年代以降、私たちの社会の「ショッピング・モール」というものは、グローバル化とともに「ファスト風土化」したというよりも、脱力的な生き方を包摂するようになってきました。人々は、ショッピング・モールで、自分を顕示的に見せるよりも、気楽で居心地のいい時間を過ごすようになってきました。ローカル化した、ということですね。またショッピング・モールには、行政の窓口や図書館、児童センター、就労支援センターまであったりして、地域の社会的な課題に応える空間にもなっています。  ショッピング・モールは、世界中どこに行っても、だいたい同じような空間ですが、そうした意味でグローバルな空間が、ローカルな課題にも応える場所へと変化しているというのは、興味深いですね。地元に愛着がある人は、地元のイオンに行くわけですね。  むろん、オンラインショッピングがさらに成長すれば、ショッピング・モール文化は衰退して、空室率が上がり、モール全体を維持することが難しくなるかもしれません。そのとき

■カミングアウトしてもビジネス界で生きていける

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ジョン・ブラウン『カミングアウト』松本裕訳、英知出版 松本裕さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 著者のジョン・ブラウンは、 1948 年、ドイツのハンブルク生まれ。イギリスの石油企業の CEO になり、同社を世界的な企業に育てます。けれども彼は、みずからゲイであることを公表して、 2007 年に同会社を退職します。その後、 2015 年に LI エナジー社の会長に就任します。本書は、たとえ自分がゲイであることを公表しても、財界でタフに生きていくことができるという、読者に希望を与える回顧録です。 ゲイの人と、ストレートの男性を比較すると、ゲイの人は、そうでない場合よりも給与が低い、というデータがあります。これはアメリカでの 10 数件の調査にすぎませんが、 32% も低くなる、という分析です。 別の国での調査もあります。いろいろな数値が出ています。おそらく結婚する男性は、家庭をもつことで、生産的に仕事をすると思われているからでしょう。昇進において、職場では「既婚」であるか、また「子持ち」であるか、ということを書く場合が多いようです。 その一方で、レズビアンの場合は、ストレートの女性よりも、子どもを持つ可能性が低いため、長時間働き、高い学歴をもち、給与も高い、という結果が出ています。

■無雙真古流の存続の危機

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井上治『慈照寺と 無雙真古流 』相国寺教化活動委員会 井上治さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。 「無雙真古流」とは、慈照寺にまつわる華道の流派で、江戸時代に始まりましたが、いま、存亡の危機にあるというのですね。慈照寺が発行していた免状が途絶えて、弟子の養成もないのだと。慈照寺は、相国寺派のお寺なので、その責任は相国寺が負うだろうというわけですね。 「六華」には「池坊」という権威があるけれども、ところが「生花」という新しい領域には、そのような権威というものがない。 18 世紀になって新しい流派がたくさんできた。そのなかに無雙真古流もあった。 無雙真古流は、当時は新しい流派だったので、自分のルーツを探して、それを権威づけようとした。この流派は、源氏を流祖としてかつぐのですね。けれども源氏をかついだ流派は、ほかにもたくさんあった。 無雙真古流はまた、珠阿弥や徳大寺義門といった人物に、重要な役割を与えて、正統な権威を作り出そうとした。この流派として存続できなくなるのは、弟子が育たなくなったからでしょうか。それは正統性の構築に問題があったのでしょうか。あるいは正統性は、いつでも再生できるのかもしれません。