■功利主義は「できるだけ多くの人間を産み育てよ」と要請するか






松元雅和/井上彰編『人口問題の正義論』世界思想社

松元雅和さま、井上彰さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 「最大多数の最大幸福」という功利主義の倫理命題は、具体的にどんな意味で解釈できるのか。例えばこの命題は、人間には「できるだけ多くの人間を産み育てる義務」がある、という倫理的要請を含んでいるのかどうか。あるいは、「いま生きている人間に限定した上で、私たちはいま生きている人たちの幸福の「量」を最大にする義務がある」、という倫理的要請になるのだろうか。これらの二つの要請を二つとも引き受ける場合には、「できるだけ多くの人間を産み育て、しかもできるだけ幸福にしてあげる」という倫理的要請を含むことになるだろう。いったい功利主義の命題は、どのように解釈することが望ましいのだろうか。
 もちろん、パーフィットか指摘するような、「人格の非同一性」という問題も関係してきます。人間を幸福に育てるといっても、一定の幸福な人格像を想定して育てることには、リスクがあるでしょう。その人は人格を変化させるので、幸福ではなくなってしまうかもしれないからです。こうしたリスクを回避して、人格というものがかりに変化しても幸福を最大化できるような人間の育て方があるという、そういう想定をする必要があるでしょうか。
 しかもその上で、人口論的には、地球環境の問題も考慮して、この地球上に、最低限の文化的水準を維持しながら暮らすことのできる人間の限界数を計算しなければならないということになるでしょうか。しかしこの数がどの程度なのか、意見は分かれるでしょう。
 一方には、悪化した環境のなかで、生存ギリギリで暮らす最大多数の状態をよしとする発想があります。他方には、よい環境のなかで、誰も功利主義的な観点からの「産む義務」や「育てる義務」というものを負わず、いま生きている人たちのあいだで、最もすぐれた文化的水準を享受するという世界の状態をよしとする発想があります。前者は「最大多数の生存ギリギリ状態」であり、後者は「最大幸福(文化)水準の少数享受の状態」となるでしょうか。
 さていま、人類はかりに「最大幸福(文化)水準の少数享受の状態」を達成できたとしましょう。この状態から、一人当たりの幸福(文化)水準を少し低くして、追加で10億人の人口を世界全体で養うことができるとすれば、そして環境問題が生じないとすれば、それは「最大多数の最大幸福」の観点からして、望ましいでしょうか。おそらく幸福の総量が増大するでしょうから、望ましいということになるでしょう。
この推論を続けていって、「最大多数の生存ギリギリ状態」にいたるところまで想像してみましょう。おそらく私たちは、ある一定の段階で、「健康で文化的な生活」の水準以下になると、それ以上に人口を増やすことに対して、功利主義の観点からも反対するのではないでしょうか。
「健康で文化的な生活」の水準が明確に確定できるのかどうかは怪しいですが、直観的には、ある一定の健康で文化的な生活の水準以下になると、人々の幸福はマイナスになると考えることができるでしょう。確かに、生きていれば、それだけで「プラスの効用である」と考えることもできます。しかし、社会全体でみると、生存ギリギリの人たちが増えることは、かえって人類の幸福度を下げるようにみえます。たとえばかつて中国政府が行ったように、一人っ子政策を施行することは、功利主義の観点から正当化できるようにみえます。
 健康で文化的な生活の水準というものが、功利主義の功利計算において、幸福の正負を分ける「ゼロ値」になると考えることがふさわしいようにみえます。しかしその水準が世界的に共有されているわけではないという点に、倫理的判断の難しさがありますね。(例えば一日一ドルの生活水準を基準にすると言っても、個々の文脈によってずいぶん生活水準は異なるでしょう。)この点で功利主義の倫理学が提供できる知見は、まだまだ制約されているように見えますが、論理的な水準では、根本的な問題を提起しているようにみえます。


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