■名誉を棄損したといえる基準についての哲学





J・ファインバーグ『倫理学と法月の架橋 ファインバーグ論文選』嶋津格/飯田亘之編集・監訳、東信堂

野崎亜紀子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

ファインバーグは、「無比較的正義」と「要比較的正義」を区別しています。独自の議論ですね。この区別から、いろいろな考察が展開されています。例えば、100点満点のテストで60点をとるというのは、無比較的な判断に基づくものです。60点というのは、他人と比較した点数ではなく、そのテストで本人が示した絶対的な値だからです。これに対して、1位を決める100メートル走に参加した場合、この順位は、他人と比較した結果ですから、「要比較的」な判断ということになります。
 この「無比較的」と「要比較的」の違いは、「他人のためにどれだけ残されているか」によって決まる、というわけですね。しかしこれは「どれだけ」という程度問題ですから、「無」と「要」のあいだには、どれだけ比較しているのかという「程度の問題」が、グラデーションをなして存在しているでしょう。
 考えてみると、100点満点のテストをするということ自体、すでにテストを受ける人たちが、「他人との比較に晒される」という状態を生み出すことですから、比較促進的な効果を持っています。この点を考慮に入れると、たんに「無比較的」と「要比較的」を区別するのではなく、「比較促進的」と「比較非促進的」という区別を考慮に入れる必要があるのではないか、と思いました。
 しかしファインバーグの論点は、100点満点のテストではなく、広く社会一般に行われている人間の行為に対して、無比較的な仕方で、正当な評価をするという「判断的正義」というものがある、ということですね。
 例えば、ある大統領が卑小な人間であるというのはまったく正しいことではない、という判断は、「無比較的」な判断の正義に基づいている、というわけですね。しかしこの場合、すでに大統領制というシステムを採用した時点で、大統領というポストは、他人のために残されているものではないので、その点ではすでに「要比較的」な判断をしているわけですよね。犯罪に対する罪の重さを公正に判断するという場合にも、すでに何を犯罪とみなすのかについての一般的なルールを採用する時点で、要比較的になっていますよね。
ファインバーグはそうした複雑な絡み合いを繊細に考慮して、できるだけ明確になるような仕方で議論を展開していますが、その結果として得られるインプリケーションは、「名誉棄損」に対する正しい判断をいかにして導くか、ということにあるようです。これはこ れで納得しました。正しい判断的正義という基準が効いてくるケースでしょう。
 しかし「名誉」というのは、他人のためにどれだけ残されているのか。考えてみると不思議です。みんなが名誉を求めて努力すると、名誉はやはり稀少になる。しかし多くの人が求めるわけではないので、名誉に対する判断基準は、あまり他人を排除しない、無比較的な基準になる、ともいえます。


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