■リバタリアン・パターナリズムは国の統治力を弱める





田上孝一編『支配の政治理論』社会評論社

田上孝一さま、執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

これはいい本ですね。「支配」というテーマで社会思想史をひろく論じ、さらに個別の文脈で、新しい現代的な知見を扱っています。
さまざまな分野の気鋭の若手の執筆者たちをコーディネートしている点もすばらしいです。
 例えば、J.S.ミル。ミルは、現代のリバタリアン・パターナリズムと比べるなら、リバタリアンに近い位置にいるのですね。温情的な仕方で、政府が企業に対して、従業員に年金の積み立てを促すような仕組みがあります。おそらくミルは、オプト・アウト(離脱するという選択肢)があるとしても、こうした仕組みには反対するでしょう。
では、J.S.ミルとC.サンスティーンを比較した場合、どちらが功利主義の原理に忠実なのでしょうか。ミルのいう「危害原理」を超えた政府介入が、功利主義的な観点から擁護できるかどうか、という問題は本質的であるように思いました。
 サンスティーンは、危害原理を超える必要性を論じています。たとえば飲酒規制は、追加税、飲酒できるお店のゾーニング(領域制限)、飲酒量の制限、などの方法を用いて、やわらかい仕方で人々の行動を規制することができます。規制したほうがかえって本人の望んだ理想の生活を達成できるでしょう。ミル的に言えば、飲酒に関する自律的な判断力を養う、ということになるでしょう。このような場合、功利主義的な観点から、温情的な規制をしてかまわないのかどうか。
 派生的な問題もあります。こうした制度を導入すると、かえって専門家支配を強めてしまうのではないか、という点です。人々は、市民として政治に参加する(自分たちで議論して決める)ことを、疎外されてしまうかもしれません。するとかえって一国の統治力は弱まるかもしれません。
どんな制度を採用するのであれ、その制度をだれがどのような仕方で導入するのかは、支配の問題として検討しなければならない。まさに「支配」の理論が必要ですね。


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