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■経済学史研究の未来を展望する

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    野原慎司『戦後経済学史の群像 日本資本主義はいかに捉えられたか』白水社   野原慎司さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   日本の経済学史研究を全体としてどう評価するか。この問題は、ぜひ議論したいところです。私も大学生のときに、経済学史という学問に魅力を感じました。その魅力とは、個々の専門的な経済学の研究を超えて、社会の「ビジョン」を与えてくれる学問であるようにみえるところです。あるいは生き方の「スタイル(指針)」を示してくれるように見えるところです。個々の経済理論を学ぶことも大切ですが、その背後にある経済思想、あるいはまた、経済思想家たちの生き方から学ぶことは多いと思いました。 本書では、内田義彦、大河内一男、高島善哉、小林昇、水田洋、伊東光晴、以上の六人が取り上げられ、それぞれ学説と社会的評論活動が整理されています。 内田義彦が指摘するように、日本の経済思想は、戦前・戦後を通して、日常から遊離した思想言語にとらわれてきた、というのは、現在も含めてその通りでしょう。しかしでは、「日常性」に立脚して学問を展開すれば、たとえマルクス主義の思想に惹かれても、個人主義にとどまることができるでしょうか。それは怪しいように思います。日本人が個人主義にとどまるためには、日常生活の構造、慣習、空気を超えて、なんらかの思想をもたなければなりません。それを内田義彦は、たんに社会科学の思考が重要だというだけで、やはり提供していないように見えます。 高島善哉の市民制社会論も、何が足りないのかと言えば、労働者階級の市民が、例えば労働条件や賃金をめぐって、経営者側と市民的な討議によって決めていくようなコーポラティズムの体制を擁護するのかどうか。このようなリアルな議論にまで至らないのは、やはり学説史研究や思想の営みが、なにか厳しさを欠いているようにみえます。 この点、伊東光晴は、現実感覚の豊かな人です。新自由主義を批判し、アベノミクスを批判する。そして健全なケインジアン的諸政策のビジョンを出しています。これは伊藤の研究対象が、ケインズという、思想家というよりは理論家・政策家であったからかもしれません。伊東光晴の貢献については、もっと論じるに値するでしょう。 その他、本書ではいろいろな経済学史家が取り上げられていますが、本書のあとがきは

■全体主義を回避するには民主主義を制約すべき

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    長野晃『カール・シュミットと国家学の黄昏』風行社   長野晃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    深い洞察に支えられた、すばらしい研究書であると思います。 20 世紀前半に活躍した気鋭の政治学者シュミットが、どんな状況でどんな問題に取り組んだのか。そしてまた、シュミットの業績に対する評価は、どのようになしうるのか。入り組んだ問題を整理しつつ、繊細な視線で心的な問題を描写しています。シュミットに対する評価においては、じつに明快に語られています。シュミットの実像に迫っていると思います。  「民衆による喝采としての民主政治」というシュミットの思想理念は、それ自体としては全体主義に結びつくとしても、シュミットに内在的な視点でみれば、そうではないのですね。  「決断しうる民衆」という理念も、よく検討すると、「国家諸機関同士の紛争に関して、上から与えられた問いに回答する存在」にすぎないというのですね (85) 。  ただその一方で、国民が「国民立法手続き」の担い手となる場合は、これをどう評価すべきなのか。シュミットは、実際には、国民発案の立法の濫用に警戒していたと。言い換えれば、シュミットは下からの民主政治を警戒していたのですね。  これに対して「喝采する国民」は、「投票する国民」とは異なり、いまだ形式化されざる国民です。シュミットはこれを「国民の直接的意思表示の自然形式」であるとして、正統なものとみなしました (130-131) 。しかし、喝采は同時に、公論を通じて形成されます。そしてその公論は、メディアによる大衆操作によって形成される場合もあります。シュミットは、そのような可能性を危惧していたわけで、つまりシュミットにとって、喝采としての政治は、アンビバレントな位置づけであったわけですね。  いずれにせよ、ファシズムや全体主義は、民主主義のなかから生まれます。ファシズムは、民主主義と親和的である、とシュミットは正しく理解しました。シュミットはイタリアのムッソリーニを称賛していましたが、しかし、ドイツはもっと近代的な国家なのだから、イタリアのようなファシズムの体制にすすむべきではない、と考えたようですね (170) 。シュミットにとって、ファシズムとは発展レベルの低い国が採用しうる体制であった、ということでしょう

■AIが代替しうる労働人口の比率は、日本で49%

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    斎藤修/古川純子『分水嶺にたつ市場と社会』文眞堂   古川純子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。     2014 年から 2017 年にかけて、一連の論文で、カール・ベネディクト・フレイとマイケル・A・オズボーンが示したシミュレーションは、興味深いですね。今後、 10-20 年のあいだに、 AI が代替しうる労働人口の比率は、日本で 49% であると。総合事務職、その他一般事務職、会計事務職、庶務・人事事務、自動車運転、食料品製造、電気機械器具組み立て、などの他、公認会計士、弁理士、司法書士、プログラマーなどの高技能職も、代替される可能性が「とても高い」、という結果が出たのですね。   AI の問題は、高技能職を奪っていくということです。単純労働だけが代替されるのではありません。高技能職でも、 AI にできることがある。これは、人間にとって「やりがいのある仕事」を奪っていくことでもあります。 しかし AI によって代替される職業は、今後、「やりがいのない仕事」とみなされるようになるかもしれません。  やりがいのある仕事は、これから少なくなるでしょう。すると「やりがい」とは、多くの人にとって、賃金や収入とは関係ないことになるかもしれません。 やりがいがある活動、価値があると思える活動は、収入が得られない。しかし政府は、それでも人々の「やりがい」を「生きがい」として提供するために、支援する必要があるかもしれません。 政府は失業対策をするだけでなく、人々のやりがい対策をすべきかどうか。例えば、「やりがい」を得るための最低限の支援として、孤立対策をする。あるいは社会的関係資本を高めるような政策をする。 10-20 年の単位で考えると、そのような社会的ニーズが生まれるのではないかと思いました。

■進化論的リベラルの一つの到達点

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  スティーブン・ピンカー『 21 世紀の啓蒙 上・下』橘朋美/坂口雪子訳、 News Picks ×草思社    シノドス・トークラウンジでは、 2021 年 3 月 30 日、伊藤隆太さまにご紹介いただきながら、ピンカーのこの本について議論しました。  ピンカーの『 21 世紀の啓蒙』は、「新しいリベラル」の一つの形態だと思います。明快なビジョンを出していると思います。 アメリカの文脈で、宗教右派や、ラディカル左派、ポピュリズムなどの立場を退けて、科学に基づく啓蒙的なヒューマニズムの立場を説得的に展開しています。  アメリカでは無神論者は 25% しかいない、ということですが、カトリックは 21% です。無神論者は、プロテスタンティズム諸派の合計と比べると少数派ですが、しかしピンカーは無神論の立場を鮮明にして、科学的な啓蒙を試みます。この立場は、日本ではおそらく多数派が支持するような見解でしょう。  ピンカーのヒューマニズムの立場は、私の理論的な枠組みでは、祭司型/主体化型リベラリズム/リバタリアニズムの三つと区別できます。 彼のヒューマニズムの特徴を整理すると、それは、ウェルビイングの上昇、死刑者数の減少、受刑率の低下、肥満率の低下、教育水準が低い人の割合の減少、早死率の低下、孤独感の低下、平均寿命の上昇、感染症による乳児死亡率の低下、などを政策的に求める立場です。これらは、最低限の政府介入を超えて、政府が一国の繁栄のために介入することを正当化します。ピンカーは、アメリカよりも税率が高く、政府の社会的支出の割合が多く、規制も多いカナダや西洋諸国を、アメリカよりも住み心地のよい国だとみています。  もう一つ、ピンカーは、社会が今後どのようになるかについて、できるだけ正確に予測するための科学的態度を重視します。それは例えば「自分の考えに合わないエビデンスも考慮に入れるべきだ」とか、「決断するときにいちばん頼りになるのは直観だとは思わない」といった態度です。これは数学的な態度ではなく、あるいはまた、何か大胆な仮説を立てる科学者の態度とも、やや異なるでしょう。ピンカーは、こうした予測者たちの態度こそ、「新しいリベラルな社会の担い手」と考えている。この点が興味深いです。 (264-265)  アメリカよりもいい国は、たくさんある。

■ソーシャルアクションタンク、市民とともに社会を変える協働研究

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    ソーシャルアクションタンク(SAT)、社会を変える協働研究チームへのお誘い   昨年、シノドス国際社会動向研究所とサービスグラントの出会いによって、あらたに「ソーシャルアクションタンク」という団体を立ち上げました。 https://www.socialactiontank.com/  この一年間、私たちは「日本のジェンダー指標の改善」という目標を立て、さまざまな NPO 団体のリーダーの方々にオンラインでインタビューをしてきました。そのなかで問題点を掘り出し、ソーシャルアクションタンクでは新たに、研究者とボランティアの方々をつないで協働研究するというプロジェクトを立ち上げました。 その第一回目のイベントを、去る 5 月 15 日(土)にオンラインで開催しました。   https://www.servicegrant.or.jp/news/6188/    いま私たちは、日本のジェンダー指標を改善するために、何をすればいいのか。 例えば、さまざまな地方自治体の「女性管理職比率」を調べて、ランキングをつけて公表する。あるいは、担当者にいろいろインタビューする、簡単なアンケート調査をして分析する。そしてレポートにまとめる、記事化する。・・・ このような活動を、「研究者と市民の協働」でもってさまざまに展開すれば、社会的影響力をもつかもしれません。けっして大掛かりな研究ではないけれども、社会的に影響力をもつような小さな研究がいろいろあるはずで、それを組織してネットワーク化してみよう、と私たちは考えました。  第一回目のイベントでは、三人の研究者による研究プロジェクトの提案と参加者による質疑応答を行いました。研究者の方々には、本当にすばらしいプレゼンテーションをしていただきました。とても感動的でした。私もすべてに参加したいという気持ちに駆られました。研究者の皆様、心からお礼申し上げます。 プレゼンテーションの詳細は、以下のホームページに載せています。 https://www.socialactiontank.com/ どうぞご高覧ください。 大槻奈巳先生からは、「女性にとって、育休の取得は、管理職への道の妨げになっているのかどうか」という、調査研究のご提案をいただきました。 金井郁先生からは、女性の管理

■どのリベラル・ナショナリズムを支持するか

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    川瀬貴之『リベラル・ナショナリズムの理論』法律文化社   川瀬貴之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    先日はオンラインにて、ご高著をめぐって議論することができました。(合評会、「正義研」にて。)ありがとうございました。いろいろ考えるところがありました。  私の質問は、「本書のオリジナリティはどこにあるのか」というものでしたが、川瀬さまの答えは「とくにない」というものでした。しかし語り方にはオリジナリティがある、ということでした。 リベラル・ナショナリズムといっても、「リベラル」の立場にもいろいろあるし、「ナショナル」の立場にもいろいろある。それらの組み合わせのなかで、どのバージョンをとりわけ擁護ないし正当化すべきかについては、本当は規範理論的に詰めて考えるべきですし、具体的な政策の場面ではなおさら、その含意がさまざまなかたちで問題になるでしょう。 リベラル・ナショナリズムは、とても幅のある立場であり、政策的には、いろいろなものを許容してしまうので、何らかのかたちで、「これがよいリベラル・ナショナリズムだ」という理念的な指針を示していただかないと、薄い議論になるでしょう。この本の弱いところだと思います。  しかしいずれにせよ、昨日の合評会で語っていただいたように、規範理論ないし思想として、何らかの立場をとるときに、川瀬さまや私が、自分の人生論的な背景に照らして、何らかの指針を見出すことができるのかどうか。 それはかなり難しいように思いました。川瀬さまも私も、とくに特異な環境で育ったわけではなく、その意味では、これまでの人生の経験全体から思想を紡ぎだすことが難しい。  多くの学者・知識人は、リベラリストです。小学校のときは頭が良すぎていじめられたり排除されたりしたけれども、中学校、高校、大学へ進学するにつれて、だんだん周りの人たちに馴染めるようになった。周囲の人たちはリベラルであることが分かった。一般に、リベラルな言説は敬遠されるけれども、大学ではリベラルな言説が当たり前のように通用している。そのような環境のなかで、みなさん、リベラリストになっていきます。 しかしこうしたリベラルな言説に違和感をもつ大学生も多いわけで、そういう人たちがリベラル・ナショナリズムに関心をもつことは大いにあるでしょう。そ

■リバタリアンは移民の受け入れを支持するのか

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    森村進『法哲学はこんなに面白い』信山社   森村進さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    『法哲学はこんなに面白い』は本当に面白いですね。本書は森村先生の論文集であり、とくに第一章の退官記念講義の記録から、私は多くを学びました。森村先生のような一流の学者の人生は、いったいどのように進んでいくのか。得るところが多いです。  また先日の東京法哲学研究会(オンライン開催)で、森村先生のこの本の合評会があり、三人のコメンテイターの方々からのコメントがありました。それらのコメントにも、触発されました。  本書に収められている諸論文のなかで、リバタリアニズムと移民規制に関する二つの論文を、興味深く読みました。  第五章「移民の規制は正当化できるか」は、ミーゼスの移民規制反対論をベースに、最初と最後でミーゼスの文章をそれぞれ引用されています。ミーゼスは、ハプスブルク帝国のような多民族の統治体を念頭に置いていて、それで移民規制には反対するのでしょう。オーストリアのある地域で日本人が多数派を占め、別の地域ではイングランド人が多数派を占めるとしても、何の困難もない、というわけですね。 しかし、オーストラリアという国全体で、日本人がすべての地域で多数派になるような状況が生じたとすれば、ミーゼスはそれを肯定するでしょうか。あるいはオーストラリアという国で、主要な言語がドイツ語ではなく日本語になるとすれば、どうでしょうか。ミーゼスも反対するかもしれません。  晩年のロスバードは、移民規制を支持するようになりました。具体的に、ソ連が崩壊して、ロシア人たちがエストニアとラトヴィアに流れ込み、これらの国の文化と言語を破壊するほどの影響力をもったという、当時の事情を受けての主張です。 ロスバードのような根源的なリバタリアンといえども、文化的なアイデンティティを急激に破壊すべきではないと考える。そのような直観を、政治的に正統なものとみなすわけですね。  ご著書の 167 頁で引用されているように、リバタリアンの歴史家のリチャード・ライコによれば、ミーゼスもまた、第二次世界大戦中は、移民規制を支持しました。オーストラリアであれアメリカ合衆国であれ、ミーゼスは移民を受け入れる際に、移民たちには、リベラルな秩序に同化してもらいたい、と考え

■追悼チック・コリア(Mourning Chick Corea)

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  追悼チック・コリア   ジャズ・ピアニストのチック・コリア氏が、 2021 年 2 月 9 日、 79 歳で生涯を閉じました。死因は、新種のがんであったようです。さらなる活躍を期待していたのですが、残念でなりません。心から、お悔やみ申し上げます。  私にとってチック・コリアは、特別な存在でした。アルバム『 SEPTET 』( 1985 年)は、私にとって人生を変えるほどの衝撃がありました。 私は大学生のころ、チック・コリアのエレクトリック・バンドの曲を、ジャズ研のバンドでコピーして演奏していたことがありました。ギターを演奏していました。しかしこのコピーバンドの活動とは別に、たまたま大学祭で、中古レコードが売られていていたのですが、そのときに買ったレコードの一枚が SEPET です。 このアルバムを聴いて、私は鳥肌が立ち、そして自分を恥じました。大学で「こんなことをしている場合ではない」という気持ちになり、焦燥感に駆られました。このアルバムによって、それまでの生活とは明らかに違う精神の次元に、足を踏み入れたような気がします。   SEPTET の CD は、ながらく廃盤のようで、数年前に私は中古で CD を買いました。 YouTube では現在、聴くことができないようです(以前は聴くことができました)。 中古 CD で改めて SEPTET を聴くと、私が大学生の当時に受けた衝撃が蘇ります。いま聴いても、すばらしいアルバムです。 SEPTET のレコードの方は、いまも手元にあります。そのジャケットは、大いなる力を発しています。私にとって「座右の書」ならぬ「座右の盤」でありつづけています。   1980 年代のチック・コリアは、エレクトリック・バンドと、アコースティック・バンドという二つのスタイルで、さまざまなアルバムを出していました。どちらのスタイルの音楽も、私は好きです。 それ以前の 1970 年代には、名盤の Return to Forever がありますね。チック・コリアにはさらに、 My Spanish Heart という、スペイン音楽を極めたアルバムもあります。しかし SEPTET は、さらにそこから、イランの都市エスファハーンにある古城をテーマにした曲を含んでいます。チック・コリアはこのアルバムで、イスラムの精神を我が

■地球温暖化対策:値段のないモノに値段を付ける知恵

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    ラジ・バテル『値段と価値』福井昌子訳、作品社    福井昌子さま、作品社さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    本書はとてもいいタイトルですね ! 原書のタイトルは、 The value of nothing です。こちらもいいタイトルです。  著者はジャーナリストですが、経済思想の歴史を、深い次元で論じています。最近の興味深い話題がたくさん仕込まれていて、経済思想の入門書としても、おすすめです。  モノの「値段」と「価値」が異なることはよく知られていますが、市場メカニズムの面白い点は、市場で値段がつかないモノにも、人工的な値段をつけて、人工市場を作って売買することができる、という点です。 例えば、二酸化炭素排出量の取引です。二酸化炭素には、もともと値段はありません。けれども全体として排出量を抑制するために、これを取引できるように、排出量に対して単価をつける。それでもって、排出量の全体を削減するインセンティヴを各国に与えるわけですね。  このような人工の市場は、必ずしもうまくいくわけではありません。  人工市場は、「炭素クレジット」という考え方を採用します。これは、諸国間で取引する温室効果ガスの削減証明書のことです。もし自国で、目標として設定される排出削減が達成できない場合には、排出枠を余らせている国から、その分を買い取ります。反対に、目標が達成できているときは、他国が排出する炭素を購入する余地があります。  さて、排出権の一つに、冷媒ガスを製造する際に排出されるトリフルオロメタンの分解物があります。南側の発展途上国にある企業( 17 社)は、いま、時代遅れの製造技術を使っています。もしこの 17 社の企業が高性能の設備を導入すれば、そのコストは 1 億ユーロかかりますが、トリフルオロメタンの分解物を著しく減らすことができるでしょう。結果として世界の二酸化炭素排出量は減るでしょう。しかしこの 17 社の企業は、そのような出費をして設備を導入しなくても、すでに排出権枠のおかげで、 47 億ユーロも儲かります。新しい技術を導入するインセンティヴがない、というわけですね。  炭素の価格を変化させて、これをうまく設定すれば、このような問題は解消されるのでしょうか。人間の知恵が問われていると思いました。