■進化論的リベラルの一つの到達点
シノドス・トークラウンジでは、2021年3月30日、伊藤隆太さまにご紹介いただきながら、ピンカーのこの本について議論しました。
ピンカーの『21世紀の啓蒙』は、「新しいリベラル」の一つの形態だと思います。明快なビジョンを出していると思います。
アメリカの文脈で、宗教右派や、ラディカル左派、ポピュリズムなどの立場を退けて、科学に基づく啓蒙的なヒューマニズムの立場を説得的に展開しています。
アメリカでは無神論者は25%しかいない、ということですが、カトリックは21%です。無神論者は、プロテスタンティズム諸派の合計と比べると少数派ですが、しかしピンカーは無神論の立場を鮮明にして、科学的な啓蒙を試みます。この立場は、日本ではおそらく多数派が支持するような見解でしょう。
ピンカーのヒューマニズムの立場は、私の理論的な枠組みでは、祭司型/主体化型リベラリズム/リバタリアニズムの三つと区別できます。
彼のヒューマニズムの特徴を整理すると、それは、ウェルビイングの上昇、死刑者数の減少、受刑率の低下、肥満率の低下、教育水準が低い人の割合の減少、早死率の低下、孤独感の低下、平均寿命の上昇、感染症による乳児死亡率の低下、などを政策的に求める立場です。これらは、最低限の政府介入を超えて、政府が一国の繁栄のために介入することを正当化します。ピンカーは、アメリカよりも税率が高く、政府の社会的支出の割合が多く、規制も多いカナダや西洋諸国を、アメリカよりも住み心地のよい国だとみています。
もう一つ、ピンカーは、社会が今後どのようになるかについて、できるだけ正確に予測するための科学的態度を重視します。それは例えば「自分の考えに合わないエビデンスも考慮に入れるべきだ」とか、「決断するときにいちばん頼りになるのは直観だとは思わない」といった態度です。これは数学的な態度ではなく、あるいはまた、何か大胆な仮説を立てる科学者の態度とも、やや異なるでしょう。ピンカーは、こうした予測者たちの態度こそ、「新しいリベラルな社会の担い手」と考えている。この点が興味深いです。(264-265)
アメリカよりもいい国は、たくさんある。だからたんに消極的な自由(政府からの自由)を掲げるのでなく、むしろ「積極的自由」の理想を掲げて、ヒューマニズムの理念にふさわしい社会を作るべきである。ピンカーはこのように考えます。
この点は私も大枠として賛成です。しかし、ピンカーが想定する「新しいリベラルの担い手像」は、本当にリベラルなのかどうか。この点については、昨年、芹沢一也さんのアイディアで、シノドス国際社会動向研究所の質問票を作りました。この質問と、私たちが考える「新しいリベラル」がどの程度関連するか、これから掘り下げて分析したいと思います。ラフにいえば、「ピンカー的なリベラルの担い手」と「潜在クラス分析で析出される日本の新しいリベラル」は、特徴が一致しません。
なお思想的に言えば、ピンカーは、大陸合理主義とイギリスの経験的合理主義の違いに触れず、大陸啓蒙主義とスコットランド啓蒙的な共感の理念を結びつけて、自分の立場を構築しています。これは合理主義内部の思考方法の違いについては重視せず、大雑把な立場をとるもので、この点、ピンカーの思想は雑駁的であるようにみえます。
例えばピンカーにとって、孤独感が、アメリカで2008年以降2012年にかけて、とくに大学生の間で上昇している点は、どうも説明に窮することのようです。全体的なトレンドとしては、大学生の孤独感は減っているので、あまり問題ないのかもしれませんが、ある一定の期間、大学生の孤独感が上昇している場合に、ピンカーは温情主義的にこの問題に介入したほうがいいと考えるのかどうか。立場は明快ではないように思います。
また幸福感についても、世界全体としては、所得の上昇とともに上昇していますが、その一方で、アメリカでは長期的なトレンドとして、幸福感が低下傾向にあります。これに対して、「自分の人生が刺激的か」という質問に対しては、アメリカ人は「はい」と答える人が増えています。幸福度は減っても、刺激は多くなっている。だからアメリカ社会はよくなっているではないか、というのがピンカーの主張です。
しかしこのように楽観してよいのでしょうか。ピンカーは楽観的ですが、どうも価値理念をすり替えて楽観しているようにみえます。おそらく啓蒙主義を大雑把な思想として支持するかぎり、このような問題に対して、有効な価値観点を提供することはできないでしょう。
ピンカーの進化的自由主義の最初の前提は、私たちの認知能力、感情能力、道徳性は、原始の環境での生存に適しているが、しかし現在の時代の繁栄のために適しているわけではない、というものです。(65)しかし人間には抽象能力があって、これを乗り越える力をもっている。この抽象化の能力に、ピンカーは啓蒙の機能があると考えます。
ピンカーは、この抽象能力が行使されることで、たとえ不完全であれ、しだいに人類が繁栄するようになったと考えます。一人当たりの栄養摂取量の上昇傾向、平和の傾向、絶対的貧困率の低下、等々、データに基づいて、世界がしだいに繁栄に向かっていることを示します。その意味でピンカーは「合理的な楽観主義」の立場をとるとされますが、ピンカー本人は、この表現よりも、「真剣な可能性主義」などの言葉がよいとしています。環境問題については「条件付きの楽観主義」の立場に立つ、と述べています。
ただ、人類は啓蒙によって、しだいに民主主義を採用するようになるのかどうか。最近、世界の民主化は後退している、というデータに基づく悲観論があります。これに対してピンカーは、ガルブレイスを参照しながら、民主主義という理想をミニマムに解釈しています。すなわち民主主義とは、「政府に十分な力がある」状態であり、「国民を無政府状態の暴力から守り、人々が独裁者の犠牲にならないように、あるいは独裁者を歓迎してしまわないように」できるような制度だといいます。
このような観点から、ピンカーは、実際の政治体制が民主主義であるかどうかよりも、人権が守られているかどうか、また死刑制度が廃止されているかどうか(また死刑執行の数が減っているかどうか)、という二つ(ないし三つ)の観点から、政治政体の評価をします。するとこの二つ(ないし三つ)の指標では、世界はしだいに改善していることが分かります。かりに独裁体制だとしても、人権を守るようになる。そのような傾向をもって、人類はしだいに啓蒙されてきたとみるわけです。
これは、例えば中国や北朝鮮に対して、「独裁体制をやめろ」と求めるのではなく、「人権を守れ」と求めることがふさわしい、ということでしょう。実質的な民主主義の手続き的制度よりも、ヒューマニズムを実現する装置としての民主主義。これをピンカーは正統化しています。