■全体主義を回避するには民主主義を制約すべき

 



 

長野晃『カール・シュミットと国家学の黄昏』風行社

 

長野晃さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 深い洞察に支えられた、すばらしい研究書であると思います。20世紀前半に活躍した気鋭の政治学者シュミットが、どんな状況でどんな問題に取り組んだのか。そしてまた、シュミットの業績に対する評価は、どのようになしうるのか。入り組んだ問題を整理しつつ、繊細な視線で心的な問題を描写しています。シュミットに対する評価においては、じつに明快に語られています。シュミットの実像に迫っていると思います。

 「民衆による喝采としての民主政治」というシュミットの思想理念は、それ自体としては全体主義に結びつくとしても、シュミットに内在的な視点でみれば、そうではないのですね。

 「決断しうる民衆」という理念も、よく検討すると、「国家諸機関同士の紛争に関して、上から与えられた問いに回答する存在」にすぎないというのですね(85)

 ただその一方で、国民が「国民立法手続き」の担い手となる場合は、これをどう評価すべきなのか。シュミットは、実際には、国民発案の立法の濫用に警戒していたと。言い換えれば、シュミットは下からの民主政治を警戒していたのですね。

 これに対して「喝采する国民」は、「投票する国民」とは異なり、いまだ形式化されざる国民です。シュミットはこれを「国民の直接的意思表示の自然形式」であるとして、正統なものとみなしました(130-131)。しかし、喝采は同時に、公論を通じて形成されます。そしてその公論は、メディアによる大衆操作によって形成される場合もあります。シュミットは、そのような可能性を危惧していたわけで、つまりシュミットにとって、喝采としての政治は、アンビバレントな位置づけであったわけですね。

 いずれにせよ、ファシズムや全体主義は、民主主義のなかから生まれます。ファシズムは、民主主義と親和的である、とシュミットは正しく理解しました。シュミットはイタリアのムッソリーニを称賛していましたが、しかし、ドイツはもっと近代的な国家なのだから、イタリアのようなファシズムの体制にすすむべきではない、と考えたようですね(170)。シュミットにとって、ファシズムとは発展レベルの低い国が採用しうる体制であった、ということでしょうか。

 本書では、ツィーグラーの「全体国家vs権威国家」の議論が紹介されていますが、この議論は、とても洞察のある内容です(223-224)。これはハイエクの全体主義批判の背景をなす考え方でもある、と思いました。シュミットにおいても、喝采する民衆にもとづく民主国家とその国民投票的正統性という理想は、全体主義化する危険をはらんでいると理解されていた。そしてその危険について、シュミットは悲観的な見解を表明せざるを得なかったわけですね。

ツィーグラーは、全体主義の危険を回避するために、社会領域の脱政治化を主張します。これはハイエクと似ています。しかしシュミットは、ツィーグラーのような「社会領域の脱政治化」について、語りえなかったのですね。ただしシュミットをよく検討すると、彼は「国家から自由な領域」について、一定の(独創的ではないけれども)考えを示していた(227)。これは、民主主義を制約する自由主義の発想であり、ハイエク的な発想ですが、シュミットはこの自由主義の思想を独自に展開するには至らなかったのですね。

 

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