■リバタリアンは移民の受け入れを支持するのか
森村進さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
『法哲学はこんなに面白い』は本当に面白いですね。本書は森村先生の論文集であり、とくに第一章の退官記念講義の記録から、私は多くを学びました。森村先生のような一流の学者の人生は、いったいどのように進んでいくのか。得るところが多いです。
また先日の東京法哲学研究会(オンライン開催)で、森村先生のこの本の合評会があり、三人のコメンテイターの方々からのコメントがありました。それらのコメントにも、触発されました。
本書に収められている諸論文のなかで、リバタリアニズムと移民規制に関する二つの論文を、興味深く読みました。
第五章「移民の規制は正当化できるか」は、ミーゼスの移民規制反対論をベースに、最初と最後でミーゼスの文章をそれぞれ引用されています。ミーゼスは、ハプスブルク帝国のような多民族の統治体を念頭に置いていて、それで移民規制には反対するのでしょう。オーストリアのある地域で日本人が多数派を占め、別の地域ではイングランド人が多数派を占めるとしても、何の困難もない、というわけですね。
しかし、オーストラリアという国全体で、日本人がすべての地域で多数派になるような状況が生じたとすれば、ミーゼスはそれを肯定するでしょうか。あるいはオーストラリアという国で、主要な言語がドイツ語ではなく日本語になるとすれば、どうでしょうか。ミーゼスも反対するかもしれません。
晩年のロスバードは、移民規制を支持するようになりました。具体的に、ソ連が崩壊して、ロシア人たちがエストニアとラトヴィアに流れ込み、これらの国の文化と言語を破壊するほどの影響力をもったという、当時の事情を受けての主張です。
ロスバードのような根源的なリバタリアンといえども、文化的なアイデンティティを急激に破壊すべきではないと考える。そのような直観を、政治的に正統なものとみなすわけですね。
ご著書の167頁で引用されているように、リバタリアンの歴史家のリチャード・ライコによれば、ミーゼスもまた、第二次世界大戦中は、移民規制を支持しました。オーストラリアであれアメリカ合衆国であれ、ミーゼスは移民を受け入れる際に、移民たちには、リベラルな秩序に同化してもらいたい、と考えました。そうでなければ、大量に移民を受け入れると、ある地域では反リベラルな社会や反リバタリアンな社会が形成されてしまうかもしれないからです。
これは、移民を受け入れる国の文化が侵食されるかどうかという問題というよりも、移民を受け入れる国の政治政体が、リバタリアン的ではなくなる可能性の問題です。そのようなリスクが高くなると、それは歴史的にまれなケースかもしれませんが、そのまれなケースにおいては、リバタリアンもまた移民に反対するのでしょう。これは帰結主義的な発想です。
森村先生の場合も、先日の合評会でご発言されていましたように、もし移民を受け入れることによって、移民を送り出す国がいっそう強権的・専制的な体制の国になり、その国の人々の人権を蹂躙する場合には、帰結主義的に考えて移民を受け入れないほうがいい、ということですね。移民を送り出す国が、いっそう全体主義的になる(リバタリアンの体制から遠ざかる)ならば、移民を受け入れないほうがいい。これは自国だけでなく世界全体でリバタリアンの体制を構築するという観点からみて、そのように判断したほうがいい、ということでしょう。
以上の論点はとても興味深いと思います。
ハンス・ヘルマン・ホッペのような反移民のリバタリアニズムについては、ご著書のなかで本格的に批判されていますが、思想的な争点は、「移民の自由」を普遍的な権利として認めるか、それとも国を移ることは、国際貿易と同様に、一国内のある私人が、その移民の受け入れを認めるかどうかという、「交換的正義」のような理念に訴えるのか、という点にあるのではないか、と思いました。
私も森村先生と同様に、ホッペの議論には説得されませんでしたが、市民権は売買の対象になるという、ホッペの議論に似た発想は重要だと思います。
森村先生の場合、財産権の正当化を、自分の身体に対する直感的な所有の感覚から導きますが、この身体ベースの正当化の論理は、それ自体としては、国をまたぐ移動の自由を普遍的に正当化するところまで拡張することは難しいと思います。移動の自由を普遍的に正当化するさいの論拠は、普遍的な人権(自由権)にありますが、これをどのように正当化するのか。
ご著書のなかでは、「国を退出する自由を認めるなら、その反対に、国に入る自由を認めよ」という正義原則によって、正当化されているようにみえます。
しかしこの正義原則は、実質的に受けとめれば、国家は、その国を退出する人の数と同じだけ、移民を受け入れるべきである、ということになるでしょうか。あるいはまた、この正義原則は、国を退出する人の事情(例えば他国でもっと豊かに暮らせる)に照らして、同じような事情の人のみを受け入れるべきだ、ということになるでしょうか。
私の発想は、もし国を退出したい人がいれば、その人はその市民権を他人に売ることができる、というものです。値段がつかない場合もあるかもしれませんが、その場合はゼロ円で売ることができます。場合によってはマイナスの値段がつくかもしれません。
移動の自由をどのように正当化するのか。これは私有財産のみならず、各種の市民権(永住権、滞在権、投票権など)もまた、売買の対象として考えるべきかどうか、という問題になるのではないかと思いました。市場ベースのリバタリアンはこのように発想するでしょう。
今後とも、どうぞよろしくお願い致します。