■どのリベラル・ナショナリズムを支持するか

 



 

川瀬貴之『リベラル・ナショナリズムの理論』法律文化社

 

川瀬貴之さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 先日はオンラインにて、ご高著をめぐって議論することができました。(合評会、「正義研」にて。)ありがとうございました。いろいろ考えるところがありました。

 私の質問は、「本書のオリジナリティはどこにあるのか」というものでしたが、川瀬さまの答えは「とくにない」というものでした。しかし語り方にはオリジナリティがある、ということでした。

リベラル・ナショナリズムといっても、「リベラル」の立場にもいろいろあるし、「ナショナル」の立場にもいろいろある。それらの組み合わせのなかで、どのバージョンをとりわけ擁護ないし正当化すべきかについては、本当は規範理論的に詰めて考えるべきですし、具体的な政策の場面ではなおさら、その含意がさまざまなかたちで問題になるでしょう。

リベラル・ナショナリズムは、とても幅のある立場であり、政策的には、いろいろなものを許容してしまうので、何らかのかたちで、「これがよいリベラル・ナショナリズムだ」という理念的な指針を示していただかないと、薄い議論になるでしょう。この本の弱いところだと思います。

 しかしいずれにせよ、昨日の合評会で語っていただいたように、規範理論ないし思想として、何らかの立場をとるときに、川瀬さまや私が、自分の人生論的な背景に照らして、何らかの指針を見出すことができるのかどうか。

それはかなり難しいように思いました。川瀬さまも私も、とくに特異な環境で育ったわけではなく、その意味では、これまでの人生の経験全体から思想を紡ぎだすことが難しい。

 多くの学者・知識人は、リベラリストです。小学校のときは頭が良すぎていじめられたり排除されたりしたけれども、中学校、高校、大学へ進学するにつれて、だんだん周りの人たちに馴染めるようになった。周囲の人たちはリベラルであることが分かった。一般に、リベラルな言説は敬遠されるけれども、大学ではリベラルな言説が当たり前のように通用している。そのような環境のなかで、みなさん、リベラリストになっていきます。

しかしこうしたリベラルな言説に違和感をもつ大学生も多いわけで、そういう人たちがリベラル・ナショナリズムに関心をもつことは大いにあるでしょう。そしてリベラル・ナショナリズムを思想として引き受けることにも意義があるでしょう。しかし同時に、多くのリベラリストは、同時に「ネイション・ステイト」のステイトの統治方法についてはリアルであり、リベラル・ナショナリズムを否定しているわけではありません。

問題は、ナショナルというときに、どのような統合原理を「よい」と考えるのかです。市民を統合する原理の一部は、「ネイション」をこえた、「アジア連合体」のようなものでもよいのではないか。ナショナリズムを追求すると、かえって長期的な国益を損なうのではないか。などなど、いろいろな議論が出てくると思います。

 最後の国際的正義(グローバル・ジャスティス)論についても、ある立場をとって提示することはいいと思うのですが、その立場をどのような理念で正当化するかというときに、思想や規範理論が問題になるわけで、それがリベラル・ナショナリズム一般、ということであれば、取りうる国際的正義の原理は、それこそ多様であり、一つには絞れないでしょう。

 こう考えてみると、思想を紡ぎだすという哲学的研究は、難しいですね。人生経験からこの種の研究の適性を考えても、うまくいかない。何が必要なのか。何が欠けているのか。こういう問いに直面するわけですね。私もこういう問題に一通り直面して、ではどうすべきであるか、と考えました。

自分の人生経験からストレートに思想を紡ぎだすかぎり、それはつまらないものになる。ある価値観点から論理的体系的にその含意を引き出すときに、いろいろな選択肢がありすぎて、たとえそれらを整理することはできても、粘り強くさまざまな含意を引き出すまでにはいたりません。結果として、理論の論理性・体系性において、息の短いものになってしまいます。これを克服する方法は、どこにあるのか、その思考の技術が切実な問題であるのように思いました。

 

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