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1月, 2022の投稿を表示しています

■炭鉱とアート/記憶/遺産に関する情報メモ

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  ■炭鉱とアート/記憶/遺産に関する情報メモ 以下の情報は、 「バトン」企画(國盛麻衣佳さんとのトーク)に際して作成したランダムなメモです。 古賀崇さま、國盛麻衣佳さま、そして北海道大学図書館より、一部情報をご提供いただきました。 ありがとうございました。 将来的には、夕張の炭坑映画など、ネットで無料で公開されることを願っています。 合わせて、そのために必要なロビイングをしたいと思います。 みなさま、この他にも情報がございましたら、ご連絡いただけますと幸いです。 hasimoto[...]econ.hokudai.ac.jpまで。 ------------------------------------------------ NPO法人 炭鉱の記憶推進事業財団 http://www.soratan.com/ みかさ炭鉱の記憶再生塾 http://www13.plala.or.jp/isaya_g/coalmine/coalmine.html ドキュメンタリー映像「三池 終わらない炭鉱の物語」 https://www.youtube.com/watch?v=1hEdQxRGd4U 波多野信子 https://www.youtube.com/watch?v=KEgjlI9fwF4 日本遺産「炭鉄港」の証言 https://www.youtube.com/watch?v=qhdknbMsiYQ&list=PLo5b3S1mLJZgJypsva7d-786CT0IIvqsc&index=1 北海道と兵庫県の日本遺産コラボ展 https://3city.net/2021/12/03/%e3%80%9012-19%e6%97%a5%e3%81%be%e3%81%a7%e3%80%91%e5%8c%97%e6%b5%b7%e9%81%93%e3%81%a8%e5%85%b5%e5%ba%ab%e7%9c%8c%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%82%b3%e3%83%a9%e3%83%9c%e5%b1%95/ 鉄炭港(日本遺産) https://3city.net/ そらち炭鉱の記憶プロジェクト https://sora-coal-art.info/archives/ 【Hatsune Miku】宇

■進化政治学の体系的なテキスト

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    伊藤隆太『進化政治学と戦争』芙蓉書房出版   伊藤隆太さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   二冊目の単著の刊行を、心よりお喜び申し上げます。 進化政治学に関する理論的な内容を、教科書風に体系的に整理しています。日本で初めての試みであり、理論面で伊藤さまのオリジナリティがあるというよりも、現在急速に発展するこの分野の諸議論を体系的に整理した点に、評価すべき貢献があるでしょう。 進化人類学者のクリストファー・ボームは、「リバース・ドミナンス」という概念を構築したのですね (58) 。これは面白い概念です。狩猟採集民族の社会では、独裁的な暴君は、憎まれて悪口を言われて転覆される。そこで人々は、ゴシップ、心の発見、意図の共有、投擲(とうてき)武器の使用、規範意識の形成、などの仕方で、独裁的な暴君を退けるための適応を図ったのだと。弱者が強者を覆す仕組みを作ることで、人類は独自の進化を遂げてきたのだというわけですね。  それからトリヴァースの有名な「自己欺瞞」の理論も紹介されています。これも本当に興味深い、大胆な仮説ですね。  これらの理論は、もちろんこれまで、さまざまな批判的検討に晒されてきたのでしょう。理論としてどこまで妥当なのか、私たちはじっくり検討しなければなりません。 理論家の視点で捉えると、こうした既存の理論を踏まえて、さらによい理論を構築して、理論上の発展を示す必要があります。  しかし進化政治学は、どうもこうした諸仮説を研究プログラムのハードコアに据えて、それ自体を批判の検討に対象にするよりも、むしろこれらを基礎的な理論ツールとして位置づける傾向にあるのではないか、という印象を受けました。これは応用的な諸科学が採用する方法論であり、体系化 = パラダイム化を志向する科学であると思います。  細かいですが、 213 頁で、人類はなぜ「奇襲戦」だけでなく、他の動物と違って「会戦」や「消耗戦」をするのか、という問いは興味深いです。 ここは「会戦」と「消耗戦」を分けて捉えたほうがいいのではないか、と思いました。会戦は、奇襲戦と違って、戦争による政治的支配の「正統性」を確立することができます。消耗戦は、この正統性の問題とは別に、互いに負ける可能性、あるいは勝っても以前より富が少なくなるという問題を提

■保守とリベラルの分断を防ぐには

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    百木漠『嘘と政治 ポスト真実とアーレントの思想』青土社   百木漠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    トランプ政権が誕生すると、「ポスト真実」という言葉がはやるようなりました。 これは政治の場面で、「正しい認識」と「誤った認識」がある状況ではなく、あからさまに「嘘」である言説がネット上に流通し、それを人々があまり深刻な問題とはとらえずに、「いい嘘」あるいは「楽しい嘘」として受容している。そういう状況が生まれているのだと思います。そしてその政治的帰結として、政治家が嘘をついても、支持率が下がらない、むしろ支持率が上がる、という状況が生まれています。  これは、見方によっては、アイロニー(皮肉)の流通であります。一部の左派もこれまで、まじめな政治言説の上げ足をとって、アイロニーや挑発の表現によって、政治を批判することの快楽を謳歌してきました。とくにラディカルな左派の一部は、アイロニーによって政治的な正統性にゆさぶりをかけてきました。そのようなアイロニーがもし政治的に支配的となれば、政治家がアイロニーを連発して真実を覆い隠しても、問題が生じないことになるかもしれません。  もっとも左派のアイロニーは高踏な文化であり、右派のポスト真実は稚拙である、という違いがあるかもしれません。 ポスト真実が流行する前は、支配的な権威や権力の側に立って、権力を批判する左派たちを冷笑する右派のシニシズムがありました。権力を批判する人たちを笑うという快楽です。この種のシニシズムは、権力を批判する機能を削ぎ、権威主義の政治を醸成します。しかし「ポスト真実」のシニシズムは、エリート支配の社会全体に対する揺さぶりをもっているように思います。理性的な統治の全体に対する揺さぶりであり、カリスマ的な支配者を願望する表現となっているのかもしれません。全体主義の危険を伴っています。  このような状況で、本書のように、アーレントの全体主義批判、あるいは公共性論に学ぶことは、ふさわしいでしょう。  本書の最後で、公共性に関するアーレントの主張(テーブルを囲んで同じ世界を生きているという事実の共有)が、身近な(親密な)他者に対する信頼関係を築くことを条件としている、と述べられています。 ところがリベラル派にとって、身近な他者はやはりリベラルで

■献身的なケアの記録

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    高井保秀『瑠美子、君がいたから 二人で歩んだ人生ノート』亜璃西社   高井保秀様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   亡き奥様に捧げられた、奥様のがん闘病記であり、看病の記録であります。心を打たれました。生活や状況の細部が克明に記されており、文体もすばらしいです。 瑠美子はペンネームなのですね。奥様は 4 年半にわたり、脳に転移したがんと闘いました。 2018 年に 64 歳で亡くなられました。  最後は会話できない状況での看病が続きました。それでも患者=奥様には周囲の声が聞こえている。そのような状況で、高井様の温かい精一杯の看病の様子が伝わってきます。看病に際して、高井様は会社を辞職され、できるかぎりの献身的なケアをされました。緩和ケア病棟では、ほとんどの日をいっしょに過ごされました。 また奥様の死後に、生前、奥様とよく散歩した手賀沼湖畔の公園に、愛犬と二人の連名でベンチを寄贈されました。  奥様との札幌と米国西海岸での生活の様子も、鮮明に綴られています。私もよくテニスをしますので、親近感がわきました。人生というのはこのようにすすみ、そして終わりを迎える。本書は、そのような日常の生活と人生の展開が、温かく語られています。 人生は肯定することができる。ではそのために何が大切なのか。大きな波動とともに伝わってきました。  お手紙にてご紹介いただいた、すすきのの居酒屋「たかさごや」には、いつか行ってみたいと思います。  奥様と、それからお母様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。  

■法のクレオールについて

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    菅原寧格/郭舜編『公正な法をめぐる問い』信山社   執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。   長谷川晃先生の退官記念論文集です。 私もこれまで、とくにリベラリズムの思想研究を通じて、長谷川先生にとてもお世話になりました。長谷川先生はこれまでのご研究のなかで、「法のクレオール」というアイディアを提起されました。これはとてもキャッチーなフレーズであり、このフレーズはその後の法哲学・法社会学その他において、豊かな研究プログラムを提供したように思います。 私たち日本人が、欧米の法律や法思想を学ぶ営みは、いわばクレオールの言語形成と同じような営みだ、という具合に捉えてみると、その生態が新たな視点で見えてきます。 ではクレオールという言葉が表しているの何なのか。何が特徴的なのか。 例えばかりに、ドイツ人と日本人が、それぞれの国を離れて、別の地域で共同生活をはじめたとしましょう。互いに互いの言語を体系的に学ぶことはせず、コミュニケーションを始めたとしましょう。するとやがて、新しい混合的な言葉が生まれ、その言葉が共有され、混合的な社会が機能するようになるのではないか。こういう現象がクレオールということではないか、思いました。 しかし私たち日本人は、歴史的にはこのように特定の地域を離れてクレオールになったわけではなく、日本という地域と文脈を前提としたうえで、ドイツなどの西欧近代文明を摂取してきました。この場合、日本は、欧米の法を自国に移植してきたわけですが、これはクレオールとどのように違うのかと言えば、日本社会という一定の文脈を前提としてきた、ということです。 クレオールという言葉には、理想として、異なる文化を尊重しながら社会を構成するという理念があるかもしれません。他方で、この言葉は、文化が混ざることの現実を表すものでもあります。そこにはおそらく、健全な混合状態と病理的な混合状態の二つがあるでしょう。クレオールは、もしそれが「異文化の健全な混合状態」を意味するなら、すでに理想のクレオールなのかといえば、そうではなく、おそらくもっと健全な、もっと理想的なクレオールというものを、私たちは描くことができます。それは例えば「法の支配」を含んだ、普遍主義的な統合です。  しかし実際問題として、クレオールの実践から、最も

■社会システムと自己準拠

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多田光宏『社会的世界の時間構成』ハーベスト社   多田光宏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    大著の刊行を心よりお喜び申し上げます。体系的に書かれた本であり、とくにルーマンの社会理論のよき理解者であることを示していると思います。  社会システムは、私たちの意識が「自己準拠」するものとして成立しています。とすれば、社会システムとは、やはり意識であって、それは独特な観察者の一人であるのではないか。 このように、社会システムを一人の独特な観察者とみなすことは、社会システムに対する私たちの見方を、さらに高次化しますね。むろんこれは、ヘーゲル的な弁証法の論理を、システム論的に言い換えた表現であるともいえます。  セカンド・オーダーの観察者が、システムの作動の時間性を前提としている、というのも、重要な論点です。セカンド・オーダーの観察者は、システム全体を、時間軸全体において捉えることはできないわけで、システムに固有の時間性を前提とせざるを得ないし、また「今この時間のシステム」を「いまこのように」観察するという、 時間に制約を受けた観察の営みになりますね。  観察のファースト・オーダーにおいても、それを土台として観察者の観察が成立するためには、すでに時間性が成立していないといけない。これはカオスを避けて観察を秩序付けるための工夫であり、時間とはその工夫の一つであるということですね。  興味深いのは、シュッツが考えていた「自生的秩序」を手がかりに、いわば個人意識の内的な秩序形成と同型のものとして、社会の秩序を考えるという視点です。私は似たような議論を拙著『社会科学の人間学』で展開したことがあります。  社会システムは、一人の独特な観察者であるとして、「観察する」という行為は、システムの生成となり、その観察が、個々の人間の雑多な観察を超えて、個々の人間が自己準拠するものを生成させていく。しかしその準拠というものが、実は怪しいものであり、不安定なものであり、あるいは分裂した多様なものである場合には、どのような社会観察になるのか。  社会システム論から学ぶべきは、自己準拠する観察もまた、多様になるということでしょうか。その場合、大澤真幸的に言えば、第三者の審級の機能不全が起きている、ということになるでしょうか。本書の最後に描かれる「分裂」がもつ規範的な意

■批判理論による新自由主義批判について

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  マーティン・ジェイ/日暮雅夫編『アメリカ批判理論 新自由主義への応答』晃洋書房   日暮雅夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。   「批判理論」というのは、一般的な意味では、社会批判をするためのさまざまな理論や方法ですが、しかし思想史のなかでは、アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼ、ハーバーマス、そしてマーティン・ジェイにいたる系譜があります。 この系譜のなかで、社会を批判するだけでなく、もっと積極的に、「オルタナティブな社会構想」を出した人は、マルクーゼとハーバーマスであり、他の人たちはあまり出していないようにみえます。  本書の第一章では、ハイエクの新自由主義が批判されていますが、これはしかし、ハイエクの自生的秩序論に対するお粗末な理解を露呈しています。すなわち新自由主義というものを、「自己決定に任せておけば、市場はやがて外部性の危機に対する解決策を発見するだろう」 (17) という具合に理解しています。はたしてこのような単純な理解と批判でよいのでしょうか。レベルが低いと思いました。  第三章は、マーティン・ジェイの論文です。そこでは、「新自由主義的想像力の合理性に従属することを拒む理由の空間が築かれねばならない」 (61) と主張されています。これはしかし、新自由主義のみならず、経済学的な思考一般に対する批判であると思います。理由の空間、理由を伴う議論の空間は、重要です。それは、一般的な利益=「厚生」に訴えるのではなく、価値を争う討議プロセスを要請します。経済学の言語ではなく、政治的・道徳的な言語を要請します。 しかしこの種の主張は、「理由の空間」を構築すれば、可能性としては、民営化は認められる、ということになるのではないでしょうか。  ハーバーマスが『後期資本主義の正統化の諸問題』で直面したのは、資本主義の複雑化とともに、私たちがあまりにも多くの議題を政治的に議論しなければならない状況となり、実践的に機能しなくなる、という問題でした。正統化するための議論が、キャパシティ・オーバーになった、ということでした。 具体的に、労働者の賃金を、「理由の空間」(あるいはまた「政治的熟議」)を通じて民主的に決定すべきなのかどうか。そのようなコーポラティズムの体制を維持すべきなのかどうか。この実際的な問題に、批判理論の

■新しいリベラルの家族社会学

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    阪井裕一郎『事実婚と夫婦別姓の社会学』白澤社   阪井裕一郎さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。    まさに「新しいリベラル」の方向性を示していると思います。家族社会学における新しいビジョンであり、新しい問題の視角であり、新しい実証研究であり、既存研究に対する批判と応答になっています。  選択的な夫婦別姓制と、完全な夫婦別姓制を比べた場合、完全に別姓にすることのほうが、男女平等の理想に近づきます。平等主義、あるいはまた一定のフェミニズムの立場からすれば、当然、後者の方が望ましいでしょう。  あるいは、かつて福沢諭吉が提案したように、男性の苗字の一文字と、女性の苗字の一文字を組み合わせて、一つの苗字を新たに作るという制度も、一つのラディカルな提案です。家を継承するという発想をやめて、個人の同意のみに基づいて結婚制度を確立するためには、この福沢的なラディカルな方法も検討の余地があるでしょう。  しかしリベラルの立場からすれば、こうした発想のまえに、選択的な夫婦別姓制度を導入することに意義があります。選択的な夫婦別姓は、平等主義の立場に立つ人たちの要求を認める一方で、平等主義の立場に立たない人の要求も認めます。このような選択制によって、イデオロギーの対立をプラグマティックに調停し、そこから次の制度改革に進むべきである、議論を継続すべきである、というのが背後にある思想的立場でしょう。  ちなみに、米国は選択的夫婦別姓制です。ところが米国では、教育水準の上昇とともに、夫婦別姓の割合が減るようです。男性の苗字で統一するカップルの割合が多くなるようです(サンスティーン)。  本書の第二章のインタビュー研究では、夫婦別姓にしている人は、フリーライターのように仕事上の不利益の問題を抱えているか、あるいは、親やパートナーや自分が離婚の経験を持つという個別の事情がある場合のようですね。こうした事情以外で、例えば、「男女平等」の平等主義を理念に掲げて、自主的に別姓にする人たちは、どれだけいるのでしょうか。このインタビュー調査からはみえてきません。 あるいはまた、平等主義ではないけれども、リベラルな観点から別姓にするという動機構造があるとすれば、それはどのようなものでしょうか。  日本で選択的な夫婦別姓制を認めてもいいという