■社会システムと自己準拠
多田光宏さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
大著の刊行を心よりお喜び申し上げます。体系的に書かれた本であり、とくにルーマンの社会理論のよき理解者であることを示していると思います。
社会システムは、私たちの意識が「自己準拠」するものとして成立しています。とすれば、社会システムとは、やはり意識であって、それは独特な観察者の一人であるのではないか。
このように、社会システムを一人の独特な観察者とみなすことは、社会システムに対する私たちの見方を、さらに高次化しますね。むろんこれは、ヘーゲル的な弁証法の論理を、システム論的に言い換えた表現であるともいえます。
セカンド・オーダーの観察者が、システムの作動の時間性を前提としている、というのも、重要な論点です。セカンド・オーダーの観察者は、システム全体を、時間軸全体において捉えることはできないわけで、システムに固有の時間性を前提とせざるを得ないし、また「今この時間のシステム」を「いまこのように」観察するという、
時間に制約を受けた観察の営みになりますね。
観察のファースト・オーダーにおいても、それを土台として観察者の観察が成立するためには、すでに時間性が成立していないといけない。これはカオスを避けて観察を秩序付けるための工夫であり、時間とはその工夫の一つであるということですね。
興味深いのは、シュッツが考えていた「自生的秩序」を手がかりに、いわば個人意識の内的な秩序形成と同型のものとして、社会の秩序を考えるという視点です。私は似たような議論を拙著『社会科学の人間学』で展開したことがあります。
社会システムは、一人の独特な観察者であるとして、「観察する」という行為は、システムの生成となり、その観察が、個々の人間の雑多な観察を超えて、個々の人間が自己準拠するものを生成させていく。しかしその準拠というものが、実は怪しいものであり、不安定なものであり、あるいは分裂した多様なものである場合には、どのような社会観察になるのか。
社会システム論から学ぶべきは、自己準拠する観察もまた、多様になるということでしょうか。その場合、大澤真幸的に言えば、第三者の審級の機能不全が起きている、ということになるでしょうか。本書の最後に描かれる「分裂」がもつ規範的な意味について、もっと知りたいと思いました。