■保守とリベラルの分断を防ぐには

 




 

百木漠『嘘と政治 ポスト真実とアーレントの思想』青土社

 

百木漠さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 トランプ政権が誕生すると、「ポスト真実」という言葉がはやるようなりました。

これは政治の場面で、「正しい認識」と「誤った認識」がある状況ではなく、あからさまに「嘘」である言説がネット上に流通し、それを人々があまり深刻な問題とはとらえずに、「いい嘘」あるいは「楽しい嘘」として受容している。そういう状況が生まれているのだと思います。そしてその政治的帰結として、政治家が嘘をついても、支持率が下がらない、むしろ支持率が上がる、という状況が生まれています。

 これは、見方によっては、アイロニー(皮肉)の流通であります。一部の左派もこれまで、まじめな政治言説の上げ足をとって、アイロニーや挑発の表現によって、政治を批判することの快楽を謳歌してきました。とくにラディカルな左派の一部は、アイロニーによって政治的な正統性にゆさぶりをかけてきました。そのようなアイロニーがもし政治的に支配的となれば、政治家がアイロニーを連発して真実を覆い隠しても、問題が生じないことになるかもしれません。

 もっとも左派のアイロニーは高踏な文化であり、右派のポスト真実は稚拙である、という違いがあるかもしれません。

ポスト真実が流行する前は、支配的な権威や権力の側に立って、権力を批判する左派たちを冷笑する右派のシニシズムがありました。権力を批判する人たちを笑うという快楽です。この種のシニシズムは、権力を批判する機能を削ぎ、権威主義の政治を醸成します。しかし「ポスト真実」のシニシズムは、エリート支配の社会全体に対する揺さぶりをもっているように思います。理性的な統治の全体に対する揺さぶりであり、カリスマ的な支配者を願望する表現となっているのかもしれません。全体主義の危険を伴っています。

 このような状況で、本書のように、アーレントの全体主義批判、あるいは公共性論に学ぶことは、ふさわしいでしょう。

 本書の最後で、公共性に関するアーレントの主張(テーブルを囲んで同じ世界を生きているという事実の共有)が、身近な(親密な)他者に対する信頼関係を築くことを条件としている、と述べられています。

ところがリベラル派にとって、身近な他者はやはりリベラルであり、他方で保守派にとって、身近な他者はみな保守であり、それぞれ信頼関係を築いているわけですが、こうした状況では、やはり身近ではない他者との関係を築かなければならない。そういう回路を持っていないといけない。その回路がいま、ネット上では分断されていて、サイバーカスケードによって、親密な他者同士の内輪の世界がますます内輪の親密性を高めるように機能している。これをどうすればいいのでしょうか。

 本書の20-22頁で紹介されている、〈世界〉のすれ違いを冷笑する会話の事例は、登場する二人の関係を、それほど分断しているようにはみえませんでした。一方は、犯罪率が下がっているのだから、私たちはこの事実をしっかり認識したほうがいいと主張し、他方は、しかし人々は以前よりも脅威を感じているのだから、その脅威の感じ方に寄り添った政策をすべきだ、といっている。これは論争としてかみ合っているのであって、政府はこの二人の意見を取り込みながら、効果的な犯罪対策を立てる必要があるでしょう。

 もしリベラルと保守の世界が完全にすれ違っているとすれば、ある政権で実施した政策を、次の政権が白紙に戻すようなことが起きるときです。しかし実際には、多くの点で、そのようなことにはなっていない。これは一つの希望であります。対話はある程度まで維持されている。問題はやはり、カスケード効果による分断を、いかにして取り除いていくのか。そのための社会的な仕掛けが必要であるように思いました。

 

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