■法のクレオールについて

 





 

菅原寧格/郭舜編『公正な法をめぐる問い』信山社

 

執筆者の皆様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

長谷川晃先生の退官記念論文集です。

私もこれまで、とくにリベラリズムの思想研究を通じて、長谷川先生にとてもお世話になりました。長谷川先生はこれまでのご研究のなかで、「法のクレオール」というアイディアを提起されました。これはとてもキャッチーなフレーズであり、このフレーズはその後の法哲学・法社会学その他において、豊かな研究プログラムを提供したように思います。

私たち日本人が、欧米の法律や法思想を学ぶ営みは、いわばクレオールの言語形成と同じような営みだ、という具合に捉えてみると、その生態が新たな視点で見えてきます。

ではクレオールという言葉が表しているの何なのか。何が特徴的なのか。

例えばかりに、ドイツ人と日本人が、それぞれの国を離れて、別の地域で共同生活をはじめたとしましょう。互いに互いの言語を体系的に学ぶことはせず、コミュニケーションを始めたとしましょう。するとやがて、新しい混合的な言葉が生まれ、その言葉が共有され、混合的な社会が機能するようになるのではないか。こういう現象がクレオールということではないか、思いました。

しかし私たち日本人は、歴史的にはこのように特定の地域を離れてクレオールになったわけではなく、日本という地域と文脈を前提としたうえで、ドイツなどの西欧近代文明を摂取してきました。この場合、日本は、欧米の法を自国に移植してきたわけですが、これはクレオールとどのように違うのかと言えば、日本社会という一定の文脈を前提としてきた、ということです。

クレオールという言葉には、理想として、異なる文化を尊重しながら社会を構成するという理念があるかもしれません。他方で、この言葉は、文化が混ざることの現実を表すものでもあります。そこにはおそらく、健全な混合状態と病理的な混合状態の二つがあるでしょう。クレオールは、もしそれが「異文化の健全な混合状態」を意味するなら、すでに理想のクレオールなのかといえば、そうではなく、おそらくもっと健全な、もっと理想的なクレオールというものを、私たちは描くことができます。それは例えば「法の支配」を含んだ、普遍主義的な統合です。

 しかし実際問題として、クレオールの実践から、最もすぐれた普遍主義的社会統合の原理が生まれるわけではありません。クレオールという言葉を用いるとき、その理想、健全さ、病理、という三つのフェーズを分けることができると思いますが、クレオールの理想社会を論じようとすると、思想として明確なビジョンに到達することが難しい。動態のプロセスに関わる理想としても、明確なことが言えないように感じました。

 ただ、見方を変えれば、クレオールという言葉は、西欧近代の法を日本に移植してきた知識人たちに対する、一つの批判的な見方でもあります。それはつまり、知識人は近代的な理性に導かれて、日本にふさわしい法律を提案したり、あるいは法実務家として運用したりしてきたわけですが、しかしそのような営みは、別の見方をすれば、知識人たちは自分がやっていることの全体像がみえていないのであって、そうした無知のなかで試行錯誤しているうちに、日本社会はしだいに近代化していった。近代化は、個々の知識人の営みの「意図せざる結果」であるといえるのかもしれません。

そうだとすれば、その意図せざる結果が歴史的に積み上げてきた社会の生態を、改めて法制史的に捉えてみる価値がある、ということではないかと思いました。

 このような研究プロジェクトの意義は、いろいろあると思います。

 一つには、欧米の法律や法哲学に関する紹介や翻訳などは、なぜそれをする価値があるのかという問いを脇においてでも、どんどん奨励すべきであるということ。このような研究は、文化のクレオール化を高めます。日本の文脈においてその意義を位置づけなくても、あるいは位置づけないほうが、クレオール化がすすみます。

また、これまで輸入学問を通じて日本の近代化に貢献してきた知識人に対して、その営みを人類学的な視点で、従来とは異なる評価をすることができそうです。

 第三には、法哲学者は、みずからの法哲学を体系的に構築する必要はなく、いろんな学説のパッチワークでもって、ダイナミックな学説変化の担い手になることができる、ということ。こうしたパッチワーク的な法哲学者に対して、法思想史の観点から、従来とは異なる評価ができそうです。

 そんなことを考えてみました。

 それから、本書に所収されている、郭舜さんの論稿を興味深く読みました。奥平康弘氏の『治安維持法小史』を参照しながら、日本の治安維持法が、いかに法の支配とは逆の方向に向かったのかが紹介されています。治安維持法は、もともと日本共産党組織の潰滅(かいめつ)を目的としていたわけですが、しだいにその適用範囲が拡大されていきます。法の支配を弱め、政府の統制力を強めていきます。ではこの法律は、その適用範囲をどのレベルに制約すべきだったのか。それは「法の支配」という観点から検討することもできますし、また「健全な意味での法のクレオール」の観点からも検討することができるでしょう。それぞれ基準を争うことができるかもしれません。


このブログの人気の投稿

■「天」と「神」の違いについて

■リップマンは新自由主義の立役者

■ウェーバーの「権力」概念を乗り越える