■批判理論による新自由主義批判について
日暮雅夫さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
「批判理論」というのは、一般的な意味では、社会批判をするためのさまざまな理論や方法ですが、しかし思想史のなかでは、アドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼ、ハーバーマス、そしてマーティン・ジェイにいたる系譜があります。
この系譜のなかで、社会を批判するだけでなく、もっと積極的に、「オルタナティブな社会構想」を出した人は、マルクーゼとハーバーマスであり、他の人たちはあまり出していないようにみえます。
本書の第一章では、ハイエクの新自由主義が批判されていますが、これはしかし、ハイエクの自生的秩序論に対するお粗末な理解を露呈しています。すなわち新自由主義というものを、「自己決定に任せておけば、市場はやがて外部性の危機に対する解決策を発見するだろう」(17)という具合に理解しています。はたしてこのような単純な理解と批判でよいのでしょうか。レベルが低いと思いました。
第三章は、マーティン・ジェイの論文です。そこでは、「新自由主義的想像力の合理性に従属することを拒む理由の空間が築かれねばならない」(61)と主張されています。これはしかし、新自由主義のみならず、経済学的な思考一般に対する批判であると思います。理由の空間、理由を伴う議論の空間は、重要です。それは、一般的な利益=「厚生」に訴えるのではなく、価値を争う討議プロセスを要請します。経済学の言語ではなく、政治的・道徳的な言語を要請します。
しかしこの種の主張は、「理由の空間」を構築すれば、可能性としては、民営化は認められる、ということになるのではないでしょうか。
ハーバーマスが『後期資本主義の正統化の諸問題』で直面したのは、資本主義の複雑化とともに、私たちがあまりにも多くの議題を政治的に議論しなければならない状況となり、実践的に機能しなくなる、という問題でした。正統化するための議論が、キャパシティ・オーバーになった、ということでした。
具体的に、労働者の賃金を、「理由の空間」(あるいはまた「政治的熟議」)を通じて民主的に決定すべきなのかどうか。そのようなコーポラティズムの体制を維持すべきなのかどうか。この実際的な問題に、批判理論の立場は、明確な主張を示すことはなく、あくまでも抽象的な議論に終始してきたのではないでしょうか。ここら辺についてもっと知りたいです。
理由の空間をどのように構築するのか。そのための社会構想、社会デザインの話をしないといけないわけですが、批判理論は積極的ではないようにみえます。熟議民主主義を要請する、ということになるでしょうか。しかし熟議の結果、新自由主義の政策を採用することになったとしたら、批判理論はこれをどのように批判するのか。
いつか議論できますと幸いです。