■関係主義的リベラリズムとは何か

 


野崎亜紀子『〈つながり〉のリベラリズム』勁草書房

 

野崎亜紀子さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 長年にわたるご研究の成果ですね。刊行をお喜び申し上げます。

 「関係」主義という観点からリベラリズムを考えるとき、個人の自己決定や自由意志が、どのような関係において尊重されるのか。あるいはまた、自分で自己決定することができない/難しい人(胎児、子ども、障がい者など)が、できるだけ尊厳をもって生きるためには、どんな人間関係が必要で、それはいかにして確保されのるか。このようなことが問題になります。

 私たちの人間関係を、リベラルな関係へと変革していく。ではリベラルな関係とは、どのようなものなのか。明解な指針を示すことは難しいようですね。

 例えば、ある疾患に関する有益な情報を、ある患者会の内部で共有して、そのメンバー以外の患者には公開しなかったとしましょう。これは患者会という「特定の関係性」を重んじて、外部を重んじなかった、ということになります。このような関係性は、リベラリズムの観点から正当化されるのでしょうか(14)。この問題は、リベラルの観点からみて、どのような関係性が望ましいか、という問題です。リベラルであれば、「患者会の外部の患者とよい関係を築け」ということになるでしょうか。

 NIPT(新型出生前診断)について、関係主義的なリベラリズムは、どんな立場を採るでしょうか。NIPTとは、「無侵襲的出生前遺伝学的検査、母体血細胞フリー胎児遺伝子検査、母体血胎児染色体検査、セルフリーDNA検査などとも呼ばれる、妊婦から採血しその血液中の遺伝子を解析することにより、胎児の染色体や遺伝子を調べる非侵襲的検査」です(wikiより)。

 妊娠したら、NIPTを受検すべきかどうか。そしてその検査結果を受け入れて、しかるべき場合には、人工妊娠中絶をすべきかどうか。これは自己決定型のリベラリズムからすれば、「任意に受検し、任意に人工妊娠中絶せよ」という規範が正しいことになります。では関係主義的なリベラリズムは、どのように発想するでしょうか。明快な立場はないようですね。胎児の生命権を重んじるのか、胎児の利益的主体性を重んじるのか。

 自己決定権を重んじる立場は、NIPTを受けない権利を認めます。あるいは受けたとしても、染色体に異常が見つかった子どもを産む権利も認めます。関係主義的リベラリズムの立場はどうでしょうか。この立場に立っても、自己決定を重んじることはできますし、また胎児の利益的主体性を考えて、産まないという判断をすることもできます。この問題は、規範理論ではかなり込み入った議論になりますね。何が私たちの道徳的直観として正しいのか、見通しが悪くなります。そうなると、自己決定や自由意志や他者尊重以外の判断要因が重要になることもあるでしょう。規範理論で考えるのはあまりにも難しいので、自己利益や社会的利益の言葉で考えよう、ということにもなるでしょう。

 別の例として、言語的マイノリティが、義務教育において多数派の言語で学ぶのか、あるいはマイノリティの自分たちの言葉で義務教育を受ける権利を持つのか、という問題も、リベラリズムという規範理念に照らして、解決できるものではありません。マイノリティの人々をどのように遇することが、個人の尊重になるのか。関係主義的なリベラリズムの観点からしても、普遍化できるような指針はないようですね。さまざまなケースを比較分析して、よりよい方法を探るということなのでしょう。

 別の例で、ハイキングの途中で、自分の父親が心臓発作を起こした場合、近くの家に侵入して電話をかけることは正当化されるか、という問題(158)ですが、これは正当化されるでしょう。他者の生命を尊重するというのは、非常事態において危害原理よりも優先されるということですね。これは関係主義というよりも、「他者の尊厳」という観点から正当化されるべきで、つまりこのハイキングで、心臓発作になった人が自分の父親ではなく、見知らぬ他者であったとしても、そのように振舞うことが、リベラルな観点からみた義務でしょう。この事例では、「危害原理」との対比で、「親しい他者」とのつながりを強調していますが、私たちの関係性を「疎遠な他者」にまで広げて、「つながりの希薄な他者」の観点から、議論を再検討する価値があると思いました。

 補論では、親が子に対して、市民権的なるものを承継するように、そのような環境を用意するように、という片務的な道徳義務が発生すると論じています。この問題も、仮に親ではなくても、見知らぬ子どもに対しても、私たちは同様の義務を負っているとみなすのかどうか。みなす立場がリベラルではないでしょうか。しかしこれは、関係主義的なリベラルの観点からすれば、基礎問題ではなくて応用問題であり、つまり親密な関係性をどこまで普遍化できるかという問題なのでしょう。しかしこの問題は、理論的には、普遍的なリベラルの価値を、どこまで個別の文脈に適用できるか、という問いとして立てることもできるでしょう。

 いずれにせよ、根本的な問題は、自己決定権を持たない他者、あるいはそのような能力が十分ではない他者に対して、どのように接することがリベラルな関係と言えるのか、ということではないかと思いました。それは他者を尊重することであるとして、尊重するとは、どのようなことか。どのような尊重の仕方が望ましいのか。私の考えでは、他者の潜勢的可能性が十全に理解されるように、また開花するように、という基準が尊重の意味の基準になります。他者の尊重や尊厳をめぐるリベラルな基準を、どのように検討するか。関係主義的リベラリズムの是非は、結局、この問題に行きつくのではないか、と思いました。


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