■新自由主義と市民社会は両立するか デンマークの教育政策から
坂口緑さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
二年前に提出された博士論文を、さらにブラッシュアップして、このようなすばらしい本にまとめられましたことを、心よりお喜び申し上げます。
コミュニタリアニズムの思想が、教育や移民対応の現場でどのような意味をもつのか。デンマークの事例を、インタビューを通して具体的に明らかにされたことは、大きな成果であります。本書は、市民派コミュニタリアニズムの言説を濃密に紡いでいると思います。
そもそもデンマークでは、12歳から25歳まで、学校を中退してそのまま労働市場に参入した人が、1990年に25.4%に上昇したというのですね(99)。政府はこれを問題視して対策を立てますが、しかしその後も、だいたい20%前後で推移している。およそ五人に一人は通常の教育制度から外れている。政府としては、95%の人が中等教育を修了できるようにしたいのだけれども、それがうまくいかない。教育に失敗している。そこで「生涯学習」という理念が、教育政策の現実的な目標になってきたのですね。
教育問題を解決する際に、デンマークでは、ボランティアによるアソシエーション(自発的結社)に期待が寄せられました。デンマークでは、およそ三人に一人が何らかのアソシエーションに参加しています。国全体で、アソシエーションは約10万団体もある(170)。その大半は、スポーツ団体ですけれども。アソシエーションは、「学校の次にデモクラシーを学ぶ場」であると認識されている、というのは興味深いです。
日本では、アソシエーションとしての各種NPO団体が、体育館や図書館の運営など、政府のサービスを請け負う場合があります。デンマークでもそのような仕組みがありますが、ではアソシエーションへの下請けは、労働の搾取にならないでしょうか。デンマークの人々にインタビューしてみると、どうもそのような意識はあまりないのですね。
政府がアソシエーションに業務を委託するのは、いわゆる「新自由主義」の政策とされます。福祉大国のデンマークでも、そのような制度が導入されています。ところがこれが大きな問題になっていない。デンマークの研究者たちは、比較的落ち着いて、この新自由主義的な政策を受け入れている。なぜそうなのか。デンマークの労働者の35.7%は、公共部門で雇われており、市場セクターは比較的弱い、という現実が、この新自由主義政策の受容と関係があるでしょうか(205)。あるいは労働組合の組織率が67.2%であるという現実が、これと関係するでしょうか(206)。
以上は、市民社会(アソシエーション)が国家の業務を受託するときに、どんな制度条件があると望ましいのか、という問題を提起しますが、日本でデンマークから学ぶべきことは何でしょう。公共部門で雇う人を増やせば、公共サービスの民営化=新自由主義の導入は問題ない、ということになるでしょうか。
ドイツでは、移民を包摂する際に、異文化間教育を実施する地域統合センターを作って、それが軌道に乗ったところで、政府がその運営に予算を計上します。新自由主義の導入を戦略的にすすめています。これに対してデンマークでは、既存のインフォーマルな教育団体が活用されるのみで、あまり戦略的ではないようですね。はたしてどちらが望ましいのか、という問題ですね。
ドイツでは移民に対する教育で、政府が中心になってNPO組織を育てて活用しています。そして最終的には移民の子どもたちを通常の学校教育に包摂して、教育の達成度(PISAの成績)を上げようとします。これに対してデンマークでは、学校の中退率が高いので、中退者をインフォーマルな学校教育で包摂しようとします。その際、政府はインフォーマルな教育に、あまり口を出さないのでしょうか。いずれにせよ、デンマークでは、PISAの平均点はあまり高くありません。デンマークの方が、多文化的で分権的で市民社会(中間集団)が強い社会だけれども、ただ教育の達成度は高くない。これは市民教育の立場からすると、一つの理想でしょうか。
デンマークの教育で、中間組織(アソシエーション)=インフォーマルな学校組織が、政府の教育サービスの一端を担うことに、下請けの感覚があまりないというのは、大きな教育目標を課されていないからではないか、と推測しました。あるいは政府に教育目標を課されているのだけれども、それをうまく遂げる中間組織がないのかもしれません。もしデンマーク政府が、PISAの点数をドイツ並みに引き上げることを目標としたら、そしてそのための予算を中間組織に配分するとしたら、中間組織の担い手たちは、かなりストレスがたまるのではないか。そのようなことを考えてみました。