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■世界的にみれば、中間層は台頭している

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ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』立木勝訳、みすず書房 みすず書房編集部様、ご恵存賜りありがとうございました。  先進国の中間層(とりわけ中の下)は所得の伸び率を落としているけれども、グローバルにみれば、中間層(その大半は中国などのアジア諸国)は所得を急激に伸ばしている。こうした傾向をどのように捉えるか、ですね。中間層は、世界全体で見ると台頭している。  ところで、アメリカの上院・下院議員に対する調査では、議員たちは、富裕層の人々に大きく関係する政治課題ほど、強く反応してしまう、というのですね。中間層は政治的に軽視されている、と。  では中間層は、アメリカでどれだけ没落したのでしょうか。 1970 年と 2010 年を比べると、中間層は、人口比で 33% から 27% へ減少しています。また中間層の平均所得は、アメリカ全体の平均所得の 80% から 77% へと減少しています。これ、数字だけ見ると、それほど没落していないようにみえます。 40 年のあいだの変化ですからね。変化の速度は緩やかにみえます。  図 5-1 は、とても興味深いですね。日本や韓国は、それほど再分配しなくても、可処分所得のジニ係数は低い値になっている。ところが北欧諸国では、再分配を多くしてはじめて、日本や韓国のレベルの可処分所得のジニ係数になっている。これはつまり、北欧諸国では、自由な市場メカニズムを大胆に導入して格差が生じることを認めたうえで、その上で再分配を強化している、ということでしょう。  いろいろなデータが示された、示唆に富んだ一冊です。

■中産層のもとにコモンウィールを

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梅津順一/小野塚知二編『大塚久雄から資本主義と共同体を考える』日本経済評論社 梅津順一さま、小野塚知二さま、ご恵存賜りありがとうございました。 大塚久雄は、 1947 年の論文「近代化の歴史的起点」『著作集 8 』所収、において、次のように述べているのですね。 近代資本主義が自生的に成長するためには、その出発点において、あらかじめ中産的生産者層のもとに、貨幣的形態をとった富(トレジャー treasure )が蓄積されていなければならない、と。 このトレジャーは、「コモンウィール」と言い換えることもできる。あるいは「民富」と言い換えることもできる。 近代化をすすめるためには、「民富」の担い手である「中産的な生産者層の広汎な形成」を企てなければならない、というわけですね。 とりわけ農民が、局地的市場経済の形成とともに、働けば働くほど貨幣形態の富を蓄積していくような経済システムが望ましい、と。 「近代化を始める」あるいは「近代化をやり直す」という目的のためには、こうした議論も意味があるでしょう。しかし近代化の次の段階をどのように進めるべきかについて、大塚(あるいはウェーバーも含めて)からどのような含意を引き出せるのか。これが見えてきません。「コモンウィール」の再定義。これがいま必要な議論だと思います。

■敵を愛することは不正、憎悪こそ正しい倫理

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大澤真幸『憎悪と愛の哲学』角川書店 大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。 民族社会学者であろうが、また固有の意味での専門の社会学者であろうが、その人の社会学的な思考と想像力の「深さ」を規定する鍵的な要素がある。それは、「概念」を発明してそこに命を吹き込むことだ、というのですね。 本書の冒頭から、本格的な話がはじまり、引き込まれます。 思考というのは、いつも行動に対して遅れています。すると人間は、行動では、思考している以上のことを実現することができます。だから思考は、行動に追いつこうとして、行動をできるだけ明晰に捉えようとして、新しい概念を発明しようとする。  本書は、憎悪をめぐる社会学です。  一般に、憎悪は道徳的に悪いものとされます。憎悪を払拭した人のほうが、それができない人よりも、倫理的にすぐれているとみなされます。しかし例えば、原爆の被害にあった人が、できるだけはやい段階で、憎悪の感情をなくすことは、はたして倫理的なのでしょうか。 例えば終戦よりも前の段階で、日本人が「アメリカ人(アメリカ政府)をもう恨んでいないよ」などと発言することは、道徳的にすぐれているのでしょうか。またそれは、政治的に有効なのでしょうか。すぐに恨みが消えてしまうのだったら、敵国は、「原発を落としても大丈夫、倫理的にそれほど問題にならないし、恨みもすぐに消える」と考えて、もっと原発を使うかもしれません。  すると憎悪の表明は、政治倫理的には、必要である。しかも長い期間にわたって憎悪することは、政治倫理的に正しい。政治をよい方向に向かわせる効果がある、ということになるでしょう。  倫理的に悪いことが、政治倫理的には正しい場合がある。そこに政治に固有の領域があるわけですね。

■キティちゃんは反西洋的なアジア的近代文化の象徴

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クリスティン・ヤノ『なぜ世界中が、ハローキティを愛するのか ? 』久美薫訳、作品社 作品社編集部さま、ご恵存賜りありがとうございました。 私も小学生のときにサンリオ・ショップでキティちゃんに出会いました。あのころはまだ、キティちゃんが生まれたばかりでした。それがいまや、キティちゃんはグローバルな人気者になっています。  キティちゃんは、フェミニズム系の人たちから叩かれることがあります。というのも西洋人は、「人は努力して幸せにならなければならない」と考えます。しかしキティちゃんは、そういうタイプではない。 アジア系の女性は、幸せに対して前向きな自分を演出することに、ためらいを感じます。「従順でおとなしいアジア女性」。そういう理想を、キティちゃんは表現しているようにみえるというわけですね。口のないキティちゃんは、「自己主張しない人間」の、いわばシンボルとしてみられる。キティちゃんは、西洋的な価値観に反するのだ、と。  それにしても、第三章では、「キティ叩き」について、たくさんの情報が集められています。これほど強烈だとは驚きました。  キティちゃんは、反西洋的なアジア的近代文化の象徴。それが世界で愛されているのですね。

■なし崩しのリベラル。社会党は自衛隊の存在を認めた

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菊池理夫/有賀誠/田上孝一編『政府の政治理論』晃洋書房 菊池理夫さま、有賀誠さま、田上孝一さま、ご恵存賜りありがとうございました。 1994 年に、社会党出身の村山富市首相は、国会で次のように答弁しました。「自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると。この発言は、自民党の内閣が踏み込むことを躊躇してきたものだったのですね。  それまで社会党は、護憲を主張してきた。ところがこの発言によって、「何も真剣に考えてこなかった政党であることがはっきり分かったに違いない」と。  いずれにせよ、その後、 2000 年に入ってから、日本は右傾化していく。 2001 年 10 月に、小泉内閣は、「テロ対策特別措置法」を制定。集団的自衛権行使の道を一歩進める。   2002 年 4 月、三つの有事関連法案を国会に提出。 2003 年 6 月に有事法制が成立。   2004 年 6 月、ブッシュ米大統領との会談で、自衛隊の多国籍軍への参加を表明。閣議決定。   2014 年 7 月、憲法解釈の変更を閣議決定。   2015 年 9 月、安全保障関連法案。  このようにみてくると、「左」の思想が有効に機能しないなかで「右傾化」が語られていくことに気づきます。「リベラル」の立場は、はたして 1994 年当時の社会党よりも「左」に位置しているのでしょうか。こうした戦争と平和をめぐる問題について、リベラルの思想が現実的で有効なビジョンを提示してこなかった点に問題があると思います。

■新自由主義がもたらしたもの

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田村哲樹/松元雅和/乙部延剛/山崎望『ここから始める政治理論』有斐閣ストゥディア 田村哲樹さま、松元雅和さま、乙部延剛さま、山崎望さま、ご恵存賜りありがとうございました。 新自由主義の問題は、社会的弱者を社会的に排除してしまう。そういう副次的な効果をもつ点に問題があるということですね。過去につくりあげた人間関係から、人は断ち切られてしまう、と。 そうしたいわば、「社会資本の貧困化」から人々を救うためには、参政権以外の政治的権利を保証しないといけない。そうでないと、社会的に排除されがちな人は政治的に不利になってしまう。また、スラム街から抜け出せない人がいる。こうした問題に対応する方法を考えなくてはならない。デモをする権利、共同体の間を橋渡しする機能としての社会資本、等々。何が重要なのか。それを議論する必要があります。

■大学を卒業すれば、幸福感が増大?

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小林盾『ライフスタイルの社会学』東京大学出版会 小林盾さま、ご恵存賜りありがとうございました。 「職業威信」スコアの高い職業は、上から医師、大会社の社長、裁判官、大学教授、パイロット、高級官僚、・・・と続きます。 これに対して「文化威信」スコアというものがあります。興味深いです。ボランティア、歌舞伎や能や文楽、クラシック音楽の音楽会、美術展や博物館、短歌や俳句、華道・茶道・書道、と続きます。 1998 年のデータということですが、最近では変化しているかもしれませんね。 この他、「幸福感」を「長期的なウェルビイング」とし、「満足感」を「短期的なウェルビイング」と規定すると、幸福感は、教育の達成によって左右される。これに対して満足感は、職業・収入への投資によって左右される、というのですね。興味深い分析です。 大学を卒業すると、満足感よりも、幸福感が増大する、ということになります。

■経済思想史の裏専攻

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Economic Analyses in Historical Perspective, edited by Jose Luis Cardoso, Hein D. Kurz and Philippe Steiner, Routledge. 出雲雅志さま、ご恵存賜りありがとうございました。  出雲様の John Ruskin in early twentieth-century Japan という論文が所収されています。日本では、ラスキンが、いわば文化的な上流階級の視点から評価されて、導入される。そのあたりの経緯を英語でまとめ、発信されています。このテーマは、経済学史・経済思想史を専攻する人たちにとって、裏専攻というか、影で楽しむ味わい深い話のようにも思います。このような発掘は、この分野の幅を広げてくれますね。

■日本発、オーストリア学派/リバタリアニズム現代思想史の達成

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村井明彦『グリーンスパンの隠し絵 上・下』名古屋大学出版会 村井明彦さま、ご恵存賜りありがとうございました。 これはすばらしい達成です。グリーンスパンについて語るためには、たんに金融論の観点からその才能を評価するのではなく、やはり初期において彼が心酔したアイン・ランドの思想との関係で捉える必要があるわけですね。本書は、このランドのリバタリアニズムに影響を受けたグリーンスパンが、その後どのようにして自身の思想を形成していったのか、あるいは政策論を展開していったのか、丹念に追っています。現代の経済思想史を開拓した、まれにみる偉業ではないでしょうか。感銘を受けました。 グリーンスパンは、まず、ランドの主著『肩をすくめるアトラス』の草稿を輪読して読むという、当時のランド教の共同体に参加することができたのですね。これは興味深い。 また当時、ミーゼスがランドの『肩をすくめるアトラス』を読んで感動し、手紙を書いたのですね、しかもそれが残っているのですね。 グリーンスパンは、当時、ランドの愛人であった、ブランデンの研究所で講義を行っています。その内容がのちに、ミーゼス研究所のウェブサイトで公開されます。また、この講義をテープで聴講したサミュエル・ボスタフという人がいます。彼はグリーンスパンと文通もしている。そうした事実が、本書でいろいろと明らかにされています。扱っている資料がとても面白いですね。 上・下と大部ですが、後半もいっきに読むことができました。現代の経済危機の原因が新自由主義にないし自由主義にあるというのは俗説であって、むしろ自由主義の欠如こそが原因であるという主張に賛同します。 グリーンスパンは基本的にオーストリア学派的なリバタリアンなのであるけれども、金融政策の内部事情に通じたがゆえに、原則論から戦術論へと自らの見解を広げっていったとみることができる。しかし、はたして本当にそのように言えるのかどうかは、グリーンスパンの立場を、思想的・理論的に再構成する作業が、体系的にうまく展開できるかどうかに依存しています。そして本書は説得力のある仕方で、その再構成を達成しています。

■カトリックは内部からの批判に寛容だった

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大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近世編』講談社 大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。 ポッジョ・ブラッチョリーニという人は、有能なブックハンターで、ドイツの片田舎の教会の書庫で、ルクレティウスの『物の本質について』を発見したのですね。 1417 年のことでした。 この本は当時のカトリックにとってきわめて危険な本であることが分かるわけですが、ポッジョは教皇庁の中枢に勤める職員。教皇の補佐役でした。 当時ラーポという人が、ローマ教皇庁を批判しています。対話篇で書かれていますが、要するに教皇庁は、道徳的に崩壊しているのだと。しかしラーポは、そのような文章を書きながら、一方では教皇庁に就職しようとしていたのですね。ラーポは自分の文章の中で、ポッジョに言及して、その博学な知識と雄弁さを絶賛しています。ポッジョのご機嫌をとって、就職しようとしていたのですね。そしてそのポッジョ本人もまた、教皇庁を批判する文章を書いている。 教皇庁のトップクラスの職員たちが、まさに自分の組織のトップを批判している。 15 世紀には、そうした「権威の相対化」が可能になっていたというわけですね (115 頁 ) 。 ルター派の論客であったら書きそうなことを、すでにカトリックの人たちが内部批判というかたちで書いていた。しかも容認されていた。これは興味深い事実です。

■自衛隊法は憲法と同格の地位をもつか

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大屋雄裕/安藤馨『法哲学と法哲学の対話』有斐閣 大屋雄裕さま、安藤馨さま、ご恵存賜りありがとうございました。 自衛隊法がそもそも法であるための根拠は、日本国憲法によって与えられます。しかし日本国憲法は第 98 条で、違憲な法を、法として認めないという無効性を主張できます。はたしてこの第 98 条をもつ憲法よりも、自衛隊法のほうが優位にある(自衛隊の存在はかりに違憲であるとしても自衛隊法は有効である)といえるのでしょうか。 法実証主義の立場に立てば、日本国憲法は帝国議会の議決という社会的事実によって根拠づけられていると考えられます。このような正当化根拠の与え方(認定のルール)は、自衛隊法の場合も同様です。自衛隊法は、国制 constitution にかかわる法であり、日本国憲法と同等の重要性を持つ。言い換えれば、同じように最高法規としての意義をもつ。もしこのように解釈するなら、日本国憲法と自衛隊法のあいだに、上下関係はないとみなしうる、というわけですね。 それにしても、 1981 年の段階では、自衛隊の存在を違憲とみなす憲法学者の割合は、 80% を超えていた。ところが 2013 年の段階では、計算の仕方にもよりますが、違憲説をとる憲法学者は 50% 程度になっている。ずいぶん状況が変わりましたね。

■絶対的な義務として遂行しなければならない悪

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大澤真幸『山崎豊子と〈男〉たち』新潮社 大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。  山崎豊子の小説に登場する財前という人は、私的な利益や幸福のために、教授のポストを狙っています。しかしその執念が行き過ぎて、利益や幸福に反してでも、教授ポストを得たいという欲望に変わっていく。カント的に言えば、財前にとって教授ポストを得ることが、定言命法的な「悪」になっている。それは絶対的な義務として、遂行しなければならないもののように感じられる。男らしさというのは、そういう定言命法的な悪を遂行する活動に宿るというわけですね。これはすぐれた洞察です。

■リバタリアンとしての見田宗介

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見田宗介/大澤真幸『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学』左右社 見田宗介さま、大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。 所得配分原理に関する見田先生の立場は、リバタリアニズムの一種ですね。幸福のための最低限の条件が保障されていれば、その上で格差はいくらあってもいい。例えば現代の日本社会で、一年間に必要な金額が 250 万円であるとします。すると、すべてのひとに 250 万円が保証されているなら、 100 億円もらう人がいてもかまわない、その上で自由に競争すればいい、というわけですね。これはガンジー以上に格差を認める、リバタリアンな見解であると思いました。

■憲法9条第2項について、国民投票を

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今井一編『国民投票の総て』 今井一さま、ご恵存賜りありがとうございました。 クラウド・ファンディングによって集めたお金で出版された本ですね。国民投票に関する世界中のデータが整理されています。世界には、これだけいろいろな国民投票がある。ならば日本でも国民投票ができるはず、と感じました。 日本で国民投票を考える場合、実際には、憲法 9 条第 2 項が問題になりますね。国民投票するなら、おそらく次のような選択になる、というのですね。 一方は、「戦力保持」・「交戦」を禁じている 9 条 2 項を、「自衛隊にかぎって認める」と改める。 他方は、自衛隊は違憲なので段階的に武装解除し、これを世界有数の災害救援隊にする。人員や装備の一部は、海上保安庁に移す。 この二つのどちらを支持するのか。国民に投票してもらうということですね。 スイスでは、学校でも家庭でも、「侵略戦争はダメだが、自衛戦はやる。兵士はもちろん市民のまた『民間防衛』のマニュアルに則って戦わなければならない」、と子どもたちに教えています。日本でも同様のやりかたで、子どもたちに戦争について教えなければならないということですね。