■敵を愛することは不正、憎悪こそ正しい倫理





大澤真幸『憎悪と愛の哲学』角川書店

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

民族社会学者であろうが、また固有の意味での専門の社会学者であろうが、その人の社会学的な思考と想像力の「深さ」を規定する鍵的な要素がある。それは、「概念」を発明してそこに命を吹き込むことだ、というのですね。
本書の冒頭から、本格的な話がはじまり、引き込まれます。
思考というのは、いつも行動に対して遅れています。すると人間は、行動では、思考している以上のことを実現することができます。だから思考は、行動に追いつこうとして、行動をできるだけ明晰に捉えようとして、新しい概念を発明しようとする。
 本書は、憎悪をめぐる社会学です。
 一般に、憎悪は道徳的に悪いものとされます。憎悪を払拭した人のほうが、それができない人よりも、倫理的にすぐれているとみなされます。しかし例えば、原爆の被害にあった人が、できるだけはやい段階で、憎悪の感情をなくすことは、はたして倫理的なのでしょうか。
例えば終戦よりも前の段階で、日本人が「アメリカ人(アメリカ政府)をもう恨んでいないよ」などと発言することは、道徳的にすぐれているのでしょうか。またそれは、政治的に有効なのでしょうか。すぐに恨みが消えてしまうのだったら、敵国は、「原発を落としても大丈夫、倫理的にそれほど問題にならないし、恨みもすぐに消える」と考えて、もっと原発を使うかもしれません。
 すると憎悪の表明は、政治倫理的には、必要である。しかも長い期間にわたって憎悪することは、政治倫理的に正しい。政治をよい方向に向かわせる効果がある、ということになるでしょう。
 倫理的に悪いことが、政治倫理的には正しい場合がある。そこに政治に固有の領域があるわけですね。

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