投稿

4月, 2019の投稿を表示しています

■政府は経済成長よりも幸福度ランキングを求めるべきか

イメージ
片山悠樹、山本達也、吉井哲編『多様化する社会と多元化する知』ナカニシヤ出版 吉井哲さま、ご恵存賜りありがとうございました。  ご高論「もしもロビンソン・クルーソーが故郷に帰らなかったら ? 」を拝読しました。 幸福度のランクでいうと、スイス、アイスランド、デンマークは高いですね。日本は 158 か国で 46 位だと。はたして日本は、こういう、幸福度の高い国を目指すのか、それとも経済成長を目指すのか。どちらを優先するのか。結局、政策上の選択肢はそれほど多くないので、できることをやる、ということになるでしょうか。 幸福度を上げるための政策は、どこまで実効的なのか。経済成長を求めるほうが、政策としては容易だということになるわけですね。しかし日本を含めて先進諸国では、経済成長が停滞せざるを得ない状況が続いており、もしかすると「幸福度」の諸指標を優先的に追求するほうが、実効的かもしれません。経済成長のための政策が煮詰まった段階で、人々の関心も幸福度へと向かっているような気もします。

■自己責任よりも成長する義務を負う

イメージ
フランソワ・シャネ『不当な債務』作品社、長原豊、松本潤一郎訳、芳賀健一解説 訳者の皆様、ご恵存賜りありがとうございました。 金融権力は、負債を負わせることによって、世界を支配します。支配している側には、相応の責任が課されなければなりません。 具体的に、ギリシアの金融を支配しているヨーロッパの諸銀行は、どのようにしてギリシアを救済することが相応しいでしょうか。 この問題に対して、芳賀先生の解説は、貸し手責任の観点から、次のように説明します。 JAL の再建のさいに、貸し手は債権の 8 割を放棄した。しかし残りの 2 割は、回収できる見込みがあったので、貸し手は追加の融資をした。 では類似の方法で、ギリシアからその債権を放棄させることができるでしょうか。するとギリシアは、担保にしていた領土を奪われることになるのではないでしょうか。実際、ギリシアの空港は、外国の民間企業に売却されてしまいました。 こうした方法には限界があるでしょう。だから選択肢は、ギリシア経済を再建する、再生するという方向でしか考えられない。債務を大幅に棒引きして、金利を上げて、返済期間を延長して、経済復興のための追加融資をする。このように「成長志向」でもって債務と負債の関係をリフォームする以外にない。 負債を抱えるということは、たんにそれを返済する責任だけでなく、返せない状態になったら、そこから成長してもらうという、成長の義務を負うことになる。破産して終わり、という自己責任原則は通用しません。これが資本の論理であり、再建計画の基本であるということかもしれません。

■闘争が壊滅するとき

イメージ
北沢恒彦『隠された地図』クレイン 那須耕介さま、ご恵存賜りありがとうございました。 ラディカル左派の運動家の北沢さんの人生が、後半のインタビューで語られています。  「「火炎ビン」のあと、ぼくが共産党と対立する時期になると、「査問」というやつが出てくるわけ。高史明さんの本にもありますよね。そうなると、ぼくは家に隠れる。母親なんか雰囲気を感じて、呼び出しの人間を追い返したりしていた。それから、捕まったとき、保釈金を親が出してくれるわけ。組織に支援体制ないし、大きな家じゃなかったけどね。これ一種の転向やね。自分のかかげた、戦後左翼の理想がここで崩れる。要するに、家とは別のところでも生きていけるというのが、その時代が与えてくれた勇気だった。世界は開かれている、どこへ行ってもいい、たたかう勇気さえあれば生きていける、そういう時代だった。しかし、闘争が壊滅して、査問も激しくなって、仲間同士で指さしあう時代になっていった。でも、一緒に捕まった連中の間には、ある感情があるね。一種の戦士共同体、今でもありますよ。」 (190)  闘争が壊滅状態に追い込まれるとき、最後の砦となったのは、それまで否定し続けてきた「自分の家」であり「母親」であった、ということなのですね。

■ヘテロなセクシュアリティをどこまで認めるか

イメージ
谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編『セクシュアリティと法』法律文化社 執筆者の皆様、ご恵存賜りありがとうございました。  正常な性に対して、ヘテロな性を法的に認めるというときに、どこまで認めるのか、という問題ですね。  突き詰めて考えても、そこにある基準は理論的なものではない。ただこれまでの社会の慣習に照らして、あるいはまたリベラルな法の理念に照らして、ある種の妥協的な判断を迫られることになります。だからセクシュアリティをめぐっては、なにが正義であるのかについて、理念を立てることも具体的な基準を立てることも、いずれも難しいですね。  こういう場合、ある判決をめぐって、これを法的・政治的に正統化する側につくのか、それともそのような判断に対して懐疑し、未解決の問題を投げかけるのか。権力を正統化しようとすると、知的な探求をどこかで断念して、ある基準を正当化しなければならない。反対に、知的探求を断念しない立場に立とうとすると、権力的な関心を捨てなければならない。こういう緊張関係があるように思います。  リベラルは、ヘテロな性をどこまで正当化するのか。この「正当化」への問いは、ある程度根源的だけれども、それ以上は根源的ではないような、そういう思考の態度をとるしかないのではないか。そのように感じました。  女性から男性への性別変更をした人が、ある女性と結婚して、その女性は第三者から精子の提供を受けて、子どもを出産したとします。その子供は、戸籍上の嫡出子として、認められるでしょうか。最高裁判決 (2013 年 ) では、認めるという判決が下されました。  しかしこれを認めるなら、もっと別の性的志向をもった人にも、同じような権利を与えるべきではないか、という要求が生まれるでしょう。それを判断する基準があるのかどうか。結局のところ、リベラルな文化を正当化する基準は、判断の成熟というこれまでの文化的な蓄積に依存しているようにみえます。

■新しい市場の開拓が、市場を共同体に埋め込むことにつながる

イメージ
大倉季久『森のサステイナブル・エコノミー』晃洋書房 大倉季久さま、ご恵存賜りありがとうございました。  現代日本の林業がどのような可能性をもっているのかについて、フィールドワークに支えられた分析を展開されています。  よくカール・ポランニー流に、市場を共同体の文脈に「埋め戻す」、ということが語られます。国内の林業は、格安な輸入材には勝てないので、国内の木材を商品化するとしても、やはりなんらかの公的補助が必要であり、そしてその補助は、市場を共同体の文脈に埋め戻すようにものでなければならない、といわれます。  しかし安易に埋め戻そうとすると、うまくいかないというのですね。  木材市場では国内の木材と輸入材との競争の結果、製材業と林業のあいだに亀裂が生まれました。国内の林業が全体として生産を縮小していくという局面において、関係者たちの協力関係を築くことはむずかしいのだと。  そうした状況のなか、徳島県では「 TS ウッドハウス協同組合」が生まれます。この協同組合は、「近くの山で家を作る運動」というものを立ち上げて、育林から製造品の加工まで、すべてをコーディネートするという協力体制を作るのですね。林を育てるところから、最終生産物の生産まで、プロセスの全体を管理していくという、新しい関係を生み出していく。  もっともこうした取り組みは、林業全体からみれば、小さな企てに過ぎないでしょう。しかし地域内に新たな信頼関係を築いていった。その意味で一つの可能性を示しています。こうした取り組みは、いわゆる市場の共同体への「埋め戻し」という保守的なイメージではなく、むしろ新しい企てであり、新しい市場の開拓でもありますね。 国内の林業を守るために市場経済社会を批判するのではなく、そのような批判を超えて、新たな市場を開拓することが、共同体への埋め込みにもなるという、新しい思想を示しているようにも思いました。

■マルクス主義の新たな指針を明快に提示する

イメージ
デヴィッド・ハーヴェイ『資本主義の終焉』大屋定晴、中村好孝、新井田智幸、色摩泰匡訳、作品社 訳者の皆様、ご恵存賜りありがとうございました。  この本は、とてもいい本だと思います! ハーヴェイがこれまで書いた本の中でも、最も明快なメッセージで、マルクス主義の可能性を体系的に、説得力あるかたちで提示しています。  資本主義には、いろいろな矛盾がある。その矛盾を 17 個に整理して、それぞれマルクスがどのように論じたのかを説明していく。すると可能性として、それぞれの矛盾を解決するための政策指針が出てくる。これはマルクス主義の規範理論としての新たな可能性を明確に示した、すばらしい本ではないでしょうか。  例えば、使用価値の問題は、住宅、教育、食糧安全保障などの具体的な財・サービスで、これを市場に任せるのではなく、すべての人に対して直接供給することが提案されます。これはある意味で、現在の社会でも実現してきたことであり、この方向でさらに問題を考えるとすれば、住宅について、これまでとは別様な公共的供給のあり方をさぐるとか、そういう想像力を刺激するでしょう。  あるいは、財やサービスの流通を円滑にするための交換手段を創設することが提案されます。貨幣よりも円滑な交換手段とは、どのようなものか。地域通貨の可能性が一つですが、私的個人が社会的権力の一形態として、貨幣を蓄積できる可能性は制限されなければならないと。こうした、社会的権力を監視して批判的に対処するという、啓蒙の役割についても、マルクス主義は十分に現代的な意義をもつでしょう。  他にもいろいろありますが、「おわりに」でまとめられた 17 の政治的実践は、いずれも意義深いものであり、それぞれの個別の実践を、マルクス主義は思想的に束ねているということに、改めて驚きを覚えました。現代におけるマルクス主義の思想的可能性を知るための、すぐれた指針の書です。ハーヴェイの本の中でも、これが一番いいと思います。

■コミュニタリアニズムによる社会契約論の問い直し

イメージ
菊池理夫『社会契約論を問い直す』ミネルヴァ書房 菊池理夫さま、ご恵存賜りありがとうございました。  現代コミュニタリアニズムの観点から、社会契約をめぐる思想史を評価した大著ですね。これまでの研究の集大成のように見えます。  ロールズのいう共通善は、結局のところ、共有された正義という善であって、それでは不十分だというわけですね。  それでもっと共同体的な価値の共有が必要だというわけですが、その場合の共同体のイメージとして、渡辺京二『逝(ゆ)きし世の面影』 (1998) に描かれている、幕末から明治にかけての西洋人の旅行記があると。それらの旅行記では、日本の民衆の方がより自由で平等である、という記述が多いのですね。  国家に対抗する民衆の自治力というものは、団結力であり、そこには共通善があったというわけですが、するとその場合の「共通善」とは、国家よりも小さい「地域」単位のものになるでしょうか。また、そのような市民的な自治力のエネルギーを、回顧的な視線で再興しようという場合、問題となるのは、それを国家レベルに拡張する際の連帯の想像力を、どのように描くのかという点ではないか。そのようなイメージの拡張をどのようにして正当化するのか。コミュニタリアニズムの思想的企ては、そのための思想史的資源を集めて検討することにあるのでしょう。

■おそまつさんのテーマはベルーフ、呼びかけられたいという願望

イメージ
大澤真幸『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』角川書店 大澤真幸さま、ご恵存賜りありがとうございました。  最初からかなり面白く、引き込まれました。早稲田大学でのサブカル講義をまとめたものなのですね。  シンゴジラで問題になっているのは、日本が対米従属を乗り越えられるか、ということ。ゴジラが現われた場合に、自衛隊がまずどのように対応すべきか、という問題があり、そして次に、アメリカに助けを求めるのか、という問題がある。こうした問題をリアルに描いていというわけですね。  「おそまつさん」で問題になっているのは、ニート。 資本主義というのは、構造的に失業者を生んでしまうというのが古典的なマルクス主義以降の問題ですが、ニートは、働けるのに働かない、という選択肢を選んでしまう。  でもおそまつさんたちは、本当は就職したいと思っていて、就職活動はする。でも「やっぱりだめだな」という感じになって、それで仕事が見つからなくても悩んでいるわけではない。ニートである自分を受け入れて、自分で自分を笑いものにする。そこが面白いわけですね。  おそまつさんのような人たちを、資本主義システムの観点からどのように位置づけることができるのか。マルクス的な発想ではダメで、そこでウェーバーのいう「ベルーフ(天職 = 職業)」、職業倫理にもとづく資本主義の精神に引きつけて解釈することができる、というのですね。「ベルーフ」というのは、神から呼ばれているということ。資本主義の社会で就職する、職を得るということは、その職に自分が呼ばれているということである。おそまつさんたちは、「本当は呼びかけられたいな」と思っている。けれども呼びかけられない。  いまの若者たちは、「社会に役立ちたい」と思っている。そういう意識傾向が、以前よりもずいぶん強くなっている。これも「呼びかけられたい」という意識として解釈できるかもしれません。呼びかけられたいけれど、自分はまだ呼びかけられていないぞ、という、いまの若者たちの欲求構造に、おそまつさんは訴えるものがあるのかもしれません。

■パタン予測はあるパラダイムに基づく

イメージ
ブルース・コールドウェル『ハイエク』八木紀一郎監訳、田村勝省訳、一灯舎 八木紀一郎さま、ご恵存賜りありがとうございました。 コールドウェルという人は、最初に『実証主義を超えて』という本を出して、私はその翻訳を学部生か大学院生の頃に丹念に読んだ覚えがあります。この本は、経済学方法論の論争を一通り検討して、当時の主流派経済学の方法(パラダイム)ではいけないのだ、という強いメッセージをもっていました。 では実証主義を超えて、経済学はどのような方向に発展させることができるのか。そのような問いが問題になるわけですが、結局のところコールドウェルは、自分で新しい経済学を発展させる責任を引き受けずに、たんなるハイエク研究者になってしまうんですね。 本書はその集大成であり、ハイエク研究としてはシャープで、周到に書かれていると思いますが、それ以上のものではなく、経済学者あるいは経済思想家としてのコールドウェルのオリジナルな議論はまったく展開されていません。その意味で、コールドウェルのような研究者は、反面教師としたいところです。 しかし本書のなかで、少し脱線するといって述べられているのですが、「パタン予測」に関する問題は、重要だと思いました。 471 頁。   1990 年代に、デイヴィッド・カードとアラン・クルーガーが実証研究を行って、当時、最低賃金の緩やかな上昇が、雇用の喪失に影響を与えなかったことを示しています。これは、従来の経済学者たちのパタン予測とは、異なる結果だったわけですね。ただ当時、なされた反論は一つだけでした。 実証する際の現実は複雑で、データの信頼性や企業側の複雑な意思決定など、考慮しなければいない要素はたくさんあります。経済学者というのは、個々の実証や反証をそれほど重視しているわけではなく、むしろパタン予測を重視している。そしてそのパタン予測というのは、経済学の論理というよりも、経済学者たちがあるパラダイムで教育を受けるという、ディシプリンに基礎をおいているわけですね。賃金が上昇すれば雇用喪失効果をもつので、それは貧困を削減しないというロジックは、主流派の経済学者たちに最初に刷り込まれるディシプリンからの発想である、というわけです。

■水田洋先生、大著の監訳!

イメージ
エリック・ホブズボーム『いかに世界を変革するか』水田洋監訳、伊藤誠、太田仁樹、中村勝己、千葉伸明訳、作品社 水田洋さま、ご恵存賜りありがとうございました。  ホッブズボームの晩年の大著の翻訳です。マルクスとマルクス主義の 200 年を描いています。  それにしても水田洋先生はこの本訳書を 2017 年に刊行されているということは、その時点ですでに 98 歳ですね。日本語版解説「著者エリックについて」を読みましたが、とても鮮やかかつ明晰に著者の人生と研究が描かれていて、この時代の研究のエネルギーを感じることができました。   1917 年生まれのホッブズボームの父は、 1929 年に亡くなり、母も 1931 年に亡くなる。 14 歳にして両親を失った彼は、叔父(おじ)のシドニーを頼って、ウィーンからベルリンに移って生活する。そのころから「社会主義生徒同盟」に参加したりしているのですね。しかしヒトラーが政権をとると、彼はユダヤ人なので、迫害を恐れておじといっしょにイギリスに渡ることになる。そこで高校生活を送るわけですね。 ホッブズボームは猛勉強して、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに合格します。大学では、講義を聴くよりも、図書館を利用することのほうがはるかに有効であることに気づいて、最初の一学期以降は、ほとんど講義に出なかったようですね。ただ一つだけ出た講義があって、それはボスタン先生の講義。ボスタンはベッサラビア出身で、当時、東ヨーロッパ情勢について講義していた。左翼の学生たちはみんな聞いたのだというのですね。 なるほど背景にあるのは、ナチス vs 共産主義、という当時の政治的構図です。ホッブズボームもボスタンも、亡命知識人として、イギリスで活躍した。 [ ベッサラビア ]Wiki 情報 1806 年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は 1859 年、ワラキア公国と同君連合を形成し、 1881 年にルーマニア王国となった。 1918 年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。第一次世界大戦終結時にはルーマニア王国と合併した。第二次世界大戦