■ヘテロなセクシュアリティをどこまで認めるか





谷口洋幸・綾部六郎・池田弘乃編『セクシュアリティと法』法律文化社

執筆者の皆様、ご恵存賜りありがとうございました。

 正常な性に対して、ヘテロな性を法的に認めるというときに、どこまで認めるのか、という問題ですね。
 突き詰めて考えても、そこにある基準は理論的なものではない。ただこれまでの社会の慣習に照らして、あるいはまたリベラルな法の理念に照らして、ある種の妥協的な判断を迫られることになります。だからセクシュアリティをめぐっては、なにが正義であるのかについて、理念を立てることも具体的な基準を立てることも、いずれも難しいですね。
 こういう場合、ある判決をめぐって、これを法的・政治的に正統化する側につくのか、それともそのような判断に対して懐疑し、未解決の問題を投げかけるのか。権力を正統化しようとすると、知的な探求をどこかで断念して、ある基準を正当化しなければならない。反対に、知的探求を断念しない立場に立とうとすると、権力的な関心を捨てなければならない。こういう緊張関係があるように思います。
 リベラルは、ヘテロな性をどこまで正当化するのか。この「正当化」への問いは、ある程度根源的だけれども、それ以上は根源的ではないような、そういう思考の態度をとるしかないのではないか。そのように感じました。
 女性から男性への性別変更をした人が、ある女性と結婚して、その女性は第三者から精子の提供を受けて、子どもを出産したとします。その子供は、戸籍上の嫡出子として、認められるでしょうか。最高裁判決(2013)では、認めるという判決が下されました。
 しかしこれを認めるなら、もっと別の性的志向をもった人にも、同じような権利を与えるべきではないか、という要求が生まれるでしょう。それを判断する基準があるのかどうか。結局のところ、リベラルな文化を正当化する基準は、判断の成熟というこれまでの文化的な蓄積に依存しているようにみえます。


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