■意志を弱くしてしまう嗜癖には政府介入を







井上彰『正義・平等・責任』岩波書店

井上彰様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

自分で責任を負えない部分については、環境(機会)とそこにおける行為の結果について、誰かにアシストしてもらう権利がある。この直観は正しいでしょう。問題はその範囲を確定するためのよい基準が、平等主義者にとっては「格差に対する許しがたいという感覚」の問題となり、その感覚の程度が状況とともに、たとえば下部構造の変化とともに、変化してしまう点ではないでしょうか。
この点とは別に、フランクファート型の事例について考えてみます。
ブラック氏という人がいるとします。彼はいま、たばこ産業に雇われています。神かがった天才的な能力を持つ脳神経学者であります。かれは、喫煙者が禁煙しようとしているかどうかを正確に判断することができます。そしてまた、タバコをやめようとする人に介入して、その人の脳の状態を操作して、喫煙を続けるように仕向けることができるとしましょう。
 さてこのブラック氏のような人がいると、喫煙者はタバコをやめようと思っても、その意志をくじかれて、タバコを吸い続けてしまうでしょう。
喫煙者には、タバコをやめたいという「欲求」も、タバコをやめるという「遂行能力」もあるとして、しかしブラック氏が介入すると、喫煙者たちは、自分の「意志の弱さ」を克服することができない、という状況におかれるでしょう。
 以上の事例は、想像的なものです。ポイントは、喫煙者が喫煙をやめたいと思ったとしても、喫煙をやめることができないということです。喫煙には中毒性の物質が混ざっていて、いったん喫煙すると、やめられなくなってしまう、ということです。
素朴に考えると、タバコをやめる「意志」がつねにくじかれるような状況においては、そもそも自分がタバコをやめるという「遂行能力」そのものが「ない」のではないか、と思われます。しかし四つのケースを区別してみましょう。
一つは、タバコをやめる「遂行能力」はあるけれども、まったく意志が弱いという状況です。
もう一つは、タバコをやめる「遂行能力」はほとんどないけれども、意志が強いという状況です。この場合は、タバコをやめることができるでしょう。意志の強さが遂行能力の弱さを克服するでしょう。
第三に、タバコをやめる「遂行能力」がほとんどなく、意志も弱い、という状況です。
第四に、タバコをやめる「遂行能力」があり、意志も強い、状況です。
 おそらくだれしも、自分がまったく意志の弱い存在になってしまうことを、タバコを始める段階で予想することはできないでしょう。もしそのような事態が予測できるのであれば、タバコを始める前の段階で、政府は温情的に介入して、タバコを禁止する社会が望ましいかもしれません。克服不可能な意志の弱さは、そもそも自分で自己責任を負えるような範囲の外にあると考えられるからです。
はたしてタバコは、自己責任の問題なのか、それとも意志そのものが挫かれてしまうような自己の破局の問題なのか。自己責任というのは、「意志」というものが、陶冶可能な状況で用いることができる政治理念ではないか。そんなことを考えてみました。


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