■J.S.ミルは「みにくい自由」を擁護
若松良樹『醜い自由――ミル『自由論』を読む』成文堂
若松良樹さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。
この本の最初に、2021年の内閣府の意識調査が紹介されています。それによると、「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」という考えに対して、「はい」と答えた日本人は42.2%しかいないのですが、これに対して韓国人は77.3%、アメリカ人は81.7%、フランス人し81.1%、スウェーデン人は78.1%、となるのですね。
日本人だけ、突出して自由に対する評価が低いですね。これはどういうことでしょうか。「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という意味の自由は、日本ではあまり受け入れられていないのですね。
しかしJ.S.ミルのリベラリズムは、このような自由を認めました。自由な活動は、他人に迷惑をかけないとしても、他人から「醜い」と思われる場合があります。そのような醜い自由を徹底的に認めるべきだ、というのがミルのリベラリズムであす。そしてまた、韓国人やアメリカ人なども、この自由意識を共有しています。
なぜこのような自由を認めるべきなのかと言えば、そのように認めたほうが、結果として個人は活力ある(エネルギッシュな)生活を送るようになり、そのエネルギーが社会全体をダイナミックに発展させるという、そうした因果関係を期待できるからですね。
反対に、他人に迷惑をかけていない行動に対して、社会が抑圧的になり、人々がその抑圧を内面化して生きるようになると、社会はダイナミックに発展しませんね。
これはつまり「醜いと思われることをする自由」が大切なのではなく、「人と違った、並外れたことをする自由」が重要だということですね。
並外れた活動に対して、中庸な道徳の観点からこれを批判するような日本社会は、発展しない、ということでしょう。個人の力を弱体化しないためには、一見すると道徳的にいかがわしくても、認めていくべきである。ミルの場合、それは帰結主義的にみて社会の発展の原動力になるから、というわけですね。
ある意味で「卓越」とは、価値があると思われていることを成し遂げることよりも、価値があるのかどうか分からないけれども、並外れたことをする行為であるでしょう。そして並外れたことが多様にダイナミックに展開する社会は、大きく発展するのでしょう。するとミルの自由論は、「並外れたことをせよ、あるいは並外れたことをしている人に寛容であれ(並外れた生の多様性を認めよ)」という命法になるでしょう。しかしこのような言い方は、レトリックとして適切ではなく、むしろ「醜いこともすべてOK」と表現した方が、結果としてもっと発展するのでしょう。