■水道を使わなくても水路建設の費用を負担すべきか






横濱竜也『遵法責務論』弘文堂

横濱竜也さま、ご恵存賜りありがとうございました。

 ある住民Aさんが、自分で井戸を掘って、生活に必要な水を賄っていました。
ところが隣人たちは協力して、遠くの川から水を引くための水路を建設しました。Aさんも恩恵を受けることになりました。
はたしてAさんは、自分の井戸を使っている場合でも、水路建設にかかった費用の応分を負担しなければならないでしょうか。184
 「そなんことはない」というのがシモンズの議論ですね。
 水道や、高速道路などは、もし使わないのであれば、その人に対して応分の負担を求めるのは公平ではありませんね。
 応分の負担を強制できるのは、例えば国防費です。
しかし国家は、「国防のためには「高速道路」が必要だ」というかもしれませんね。あるいは「国防のためには「通信ネットワーク」も必要だ」というかもしれませんね。すると住民は、高速道路や電話を使ってなくても、そのための費用を負担させられるかもしれませんね。
クロスコは、必要不可欠な財を供給するための道具を「裁量財」と呼び、こうした公共財もまた、人々が公平に負担しなければならないという論理を導きます。
 しかしこうした「裁量財」の正統化は、たしかに論争の余地があります。
 ある住民が私費で、耳寄り情報を仕入れて流すという「街頭放送」をしていました。ところがあるとき、私費での運営に限界を感じて、町の住民たちに聴取料を徴収すると言い出しました。これは正当化されるでしょうか。怪しいですね。耳寄り情報がなくても、人々は生活していくことができます。
 つまり、負担が公平だからと言って、その公平性は、ある課税を正当化する根拠にはならないわけですね。公平性は道具的価値であって、それだけでは正当化根拠にならない、と。ここでの横濱さんの議論は、かぎりなくリバタリアンに共鳴しているとの印象を受けました。


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