■自分の選好がヴェールにつつまれている場合の選択
亀本洋『ドゥオーキン「資源の平等」を真剣に読む』成文堂
亀本洋様、ご恵存賜りありがとうございました。
大金がかかるエベレスト登山こそが、人生において何よりも大事と考える人がいるとします。そのような人が、ローマー的な仮想保険に加入したら、たまたま高所得に当たったときには高額の保険料を取られてしまい、エベレストに登ることができません。低所得に当たったときは、そもそも保険に入っていても、資金が足りず、登れませんね。エベレストに登りたい人は、仮想保険に加入するインセンティヴがないでしょう。
しかしドゥオーキンは、「仮想的質問に唯一の答えはない」とか「ほぼ全員が平均的な保険を買ったとしたら」という具合に、こうした境界的な事例をうまく論理的に避けているようですね。あるいは「無知のヴェール」の前提の下では、自分がエベレストに登りたいかどうかについても知らない(あるいはそのような選好がある一定の確率で与えられることを知っている)ことになりますから、保険に加入する可能性が高くなりますね。
ドゥオーキンの場合、こうして、特定個人の選好は、その個人が責任をもって引き受けるべきものとはみなされないわけですね。およそ国家の正統性を考える場合、こうした思考実験はたしかに有効であると思います。
この他、ジョン・ローマーのドゥオーキン批判は、誤解を含んでいると。
ドゥオーキンの「仮想保険構想」には、特定個人ベースの保険と、平均人ベースの保険が混在している。それによって豊かな議論になっているけれども、分かりにくい。
二つの視点、すなわち特定個人と平均人のバランスに留意しないと、ドゥオーキンを誤解することになるというわけですね。